こんにちは。


「希求をやめない魂――安藤先生が教えてくれたこと――」(『駿台フォーラム』第20号、2002)の続き(「安藤先生と時代区分論」の部分)です。


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安藤先生と時代区分論


いくら僕が鈍感な男でも、先生にとって「時代区分論」を考えることが格別な意味をもっていることはわかっていました。

当時の駿台には、採用された日本史科新人講師は先生の授業を参観するという慣習がありました。


僕は、あのころからにすでにクラシックな建造物だった2号館の教室で先生の講義を聞きました。

満員の受講生を前にして、先生は、鎌倉幕府の成立を熱っぽく論じていて、ある時代の成立を、1185年で区切るか、1192年で区切るかでは、いかにその含意するものが違ってくるのかということを、かなりの、というよりも例の早口で話されました。


こんな話を春期講習の初日にして生徒はついてくるのだろか――教室の熱気は、この疑念が誤りだったことをすぐに悟らせてくれました。


本号に収録されている、先生にとって結果的に遺稿となってしまった論考「時代区分を考えるために」(未完)においても、真正面から歴史哲学が語られています。

ここで論じられていることは、おおよそ次のようにまとめられるでしょう。


社会に生きる我々は、自覚的であろうとなかろうと、娯楽や文化の一つのジャンルとして、歴史に対してかなり主観的なアプローチをしている。アプローチの基準を一言でいえば、「面白いから」、あるいは「興味を惹かれるから」ということであり、多くの場合、過去の歴史は、歴史上の人物に自己を投影させるという営為をつうじて「未来への橋渡し」をしてくれることになる。ということはつまり、一見、面白さと興味を媒介にした、身勝手な自己投影願望を歴史叙述によって満足させようとする人々の姿勢は、実際のところ、過去のなかに未来をみつめるという点で大変ポジティブな性格を秘めている。


先生は、このような歴史のもつ特質を、社会を変えていくための可能性の芽として非常に大切なものだと判断されていたようです。


先生は、面白さや興味を入り口にして人々が歴史に接近してくる経路がこれだけ社会に充満しているというのに、なぜ歴史学がその要請に正面から応えようとしないのか、この点に大きな不満を抱かれていたのだと思います。


たとえば歴史小説という体裁を最初からとっている場合、書き手も読み手も、それがフィクションであるという前提を共有しています。

しかし、教科書や学術書といった体裁をとる歴史叙述の場合、ある意味で、書き手のなかにも読み手のなかにも、そこに書かれていることが学問の成果を反映したものであるか、もしくは学問そのものと了解されているため、科学的であり客観的であるはずだという思い込みが生まれます。

「歴史は歴史的被制約的である」ということが忘れ去られて、議論が暴走しやすくなるのです。


歴史学の自己認識が科学的であり客観的であるべきだという世界にとどまっているかぎり、歴史学は、純粋な興味から歴史に近づいてくる人々をとりこぼしつづける。

このような焦燥感に駆られて先生は「時代区分論」を書きつづけられていた――。僕は、そんな気がしてなりません。


安藤先生の思索の延長線上には、ときどきの社会的変動によって、あるいは社会全体の思潮によって、時代区分の設定がいかに恣意的に設定されてきたかという点を明らかにしていけば、たとえば発展段階論的な歴史観のもつ制約性を明らかにできるという考えがありました。

「学問は科学でなければならず、科学とは客観的なものだ」という考え方自体がヨーロッパ近代によってもたらされた観念であることを、先生はくりかえし強調されています。


このような論理展開は、学部で日本史学を、大学院で哲学を学ばれた先生の独壇場でありました。

こうした骨太の歴史哲学を語ることのできる人物に二度とめぐりあうことはないのではないか、当分の間、このズシッとくる喪失感から逃れられそうにありません。