こんにちは。


複数の知人から話があって、『いっきに学び直す日本史』(全2巻,安藤達朗著、佐藤優企画・編集・解説、山岸良二監修,東洋経済新報社)を入手しました。

底本は、予備校講師として常に身近に接してきて安藤先生が1970年代に刊行し、その後、何度も改訂を加えられた『大学への日本史』(研文書院)。

ほとんどルネサンス的といってよい斬新な企画です。


とても「いっき」には読めない大著なのですが、パラパラとページをめくりながら、安藤先生の追悼文をここに再録しようと思い立ちました。

『駿台フォーラム』(第20号、2002)に「希求をやめない魂――安藤先生が教えてくれたこと――」と題して記したものです。

少し長いので、3回に分けて掲載します。


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安藤先生とスリッパ


春一番ほどの強風が吹くと、ふわりと浮かんでしまいそうなくらい軽そうだった先生のお身体を運んでいた履物は、なんとスリッパでした。

新米講師の一人として僕が最初に先生を駿台の校舎でお見かけしたとき、真っ先に目に飛び込んできた物体がこれでした。


ピカピカに磨かれた皮靴などではなく、かといって履きやすさ一辺倒の健康サンダルでもなく、ただのスリッパだったということに、ちょっと驚いたことをよく憶えています。


少なくとも予備校講師にとって、スリッパはつくづく無防備な履物だと思います。

黒板に何やら書こうとうしろを向けば、靴下を履いた「かかと」が座席から丸見えになってしまうはずだし、受験生でごった返す廊下では、安藤先生の何倍もありそうな男子生徒に踏みつけられてしまいそうで、心配でした。


「安藤先生、スリッパは危ないです……」。


ただ、今こうして先生の追悼文を書きながら、いつも笑顔を浮かべてスリッパですたすた歩いて教室に向かわれた、あの姿を思い出してみると、この無防備さが、つまりいいかえると、いい意味での軽やかさが、先生の学問的特質をかたちづくっていたのは間違いないと思われてきます。

『駿台フォーラム』16号に先生が掲載された論文「時代区分をめぐって―歴史観の転換のために―」の末尾は、次のような言葉で締めくくられていました。


どの学問でもそうですが、歴史学ではとくに、現在は研究分野が細分化し、研究者同士の対話もままならない状態になっています。しかし、本稿は、そのようなものとは無縁です。今こそ、歴史を大きくとらえる努力をしなければなりません。(中略)本稿では、そのような考え方をしたつもりです。しかし、私の浅薄な知識によって、とんでもない誤りや思いもよらないような誤解も、多々あるとは思います。一方でそれを怖れていては何もできないとも思います。間違いがあれば、改めればいい。


見事なほど軽やかな言い切りです。
このような言葉に接すると、当然のことながら、先生の醸しだしていた無防備さの背後に、みずからの学問に対する自負とそれを裏づける日々の研鑚が宿っていたことをあらためて思い知らされます。


けれども、先生からみれば一介の若造に過ぎなかった僕の脳裏には、それはスリッパ履きの危うさとして、哀しいことに、それ以上の深度をともなわないまま記憶されていたに過ぎませんでした。

ひとはやはり、自己の狭い認識の範囲でしか対象をとらえることはできないようです。

いつも、一番肝腎なところを見逃してしまいました……。