こ と ば の 真 理 !
そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれかを、知っておられたのである。――――
そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできないと。』と言ったのです。」
ヨハネ福音書6章60節~65節
イエスが「わたしが天からのパンである。」と言った後の弟子たちの反応は、大変冷ややかなものであり、これを機に去る者たちが続出しました。
「わたしの肉を・・・」、「わたしの血を・・・」と弟子たちになぜ、これ程センセーショナルなことを言われたのでしょう。
これは後に自分が十字架にかかられ凄惨な死に方をされることを予期して、あえて弟子である彼らに、この様に言われたと思います。
前稿でも取りあげて述べた様に、イエスの言っている意味には、「わたしを外側から観察して理解する対象から、内側に受け入れて生きるいのちとして受けとめてゆくのか」ということを要求しているのです。
多くの人は、自分の理解できないもの、納得いかないもの、自分の思考の枠を超える事柄などに、直面するとき、これは受け入れられないとして退けます。
弟子たちに「こんなひどいことば」と言われ去られた師は、歴史の中でも、あまり例を見ません。
さらに、「このことでつまずくのか。」言い、十字架の死と復活や、再び天に戻ることまで触れています、このときすでに十字架の刑は、時間的な迫りとして、イエスに近づいていました。
あなたは、自分の中にある何かを表現したいと思うとき、内側からの情熱や力を必要としませんか。自分が納得している世界や理解しているものだけに留まっていると、それは難しいと思いのではないでしょうか。
その枠から、外へ飛び出て何かをするには、感動の情熱と内から働く力である聖霊なる主の働きかけが必要になります。それは、イエスの言ういのちとも言い換えられます。
理解できなくとも、またよく分からなくとも、人間はこの力を受け取ることはできます。あなたには必要ないでしょうか。
フォロアーの方、いいねくださる方、アクセスしてくださる方、最後まで読んでいただき感謝します。
ご意見、ご感想のある方は、コメントいただければ感謝です。
