神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるた
めである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなか神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されたったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。
その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明ら
かにされるためである。
ヨハネ福音書3章16節~21節
今回、この箇所の最初にある、この一文は、イエス・キリストが世に来られた目的と働きを簡潔に述べています。
この「世を愛された。」という部分がありますが、その部分の「世」の所に、ご自分の名前を入れて、フルネームで読んでみてください。
そうすると自分をということになり、その他大勢の中の私ではない、「あなた個人を愛してるって?」と、なりませんか。ちなみに、この読み方に無理はありません。
イスラエルという国で、二千年前に生まれた方です。しかし、今も生きておられるリアルな実在の方です。
ただ実在しているだけなら、他にも沢山あります。家族・友達・学校・職場・サークル・バンドの仲間・何かを共有しているコミュニティーなどあります。大切なのは、その実在者が、生きている私たちにどんな影響を与えているかです。
見て、ふれて、さわれる、その存在が私たち個々の存在を危機に陥れたり、損なわせたりして、場合によっては生きることを否定することもあるのです。
なぜ。地球上に何億という人が、救い主キリストを個人的な救い主として、信じているのでしょう。
救い主キリストは、目には見えませんが、確かに生きて、私たちの心の奥深くにある霊にふれて「いのち光」で照らしてくださるからです。
このことを、信じませんと言うことは簡単です。
しかし、拒んだものが実在して真実を語っているならば、拒んだ「そのこと」により自ら否定されるのです。
今の時代、簡単に、人間が人間を否定することに慣れきっていないでしょうか。
でも、信じると言っても、相手のことをよく知らないし…。
その通りです。だから信じるという前に、相手を知ることから見分けることに進みます。
何につけても、疑いを持つ今の世であるからこそ、信じるという事、もっと言えば信じ合えることが大切なのだと思います。
確かに自分を守るため疑うことも必要だと思いますが、私は信じませんと言う前に、自分でよく相手のことを知ってからでも遅くないのではないでしょうか。
