僕は4階建ての男子寮に住んでいる。元はどこぞの名家の領地であったらしい土地は戦争の火も逃れたために大昔のままの姿で東京の町中に鎮座している。ほとんど原生林のような敷地は東京ドーム何個分というような規模で語られる。広大な森の中、門をくぐってから10分も歩くような寮、そんなところである。

・田崎 良平
 僕の部屋は4階の一番奥、南向きで日当りがよく、両面石壁で防音にも優れている。向かいの部屋には山下さんという先輩が住んでいる。山下さんはどこか怪しげな魅力のある人で、神出鬼没、いつ部屋にいるのか把握しづらい。どうも外泊が多い様子だけど、決まった宿に泊まっているようでもない。4階全体が最上階ということもあってなんとなく寮からは浮いた人間が多く住んでいるが、山下さんほど寮から浮いた人間はいない。月に1、2度見かければ運がいいくらい。1階の僕の同輩、つまり2年生の輩などは山下さんの名前こそ知っているが顔もほとんどわからないという具合である。僕は部屋が近いこと、もっぱら部屋にいてドアを解放していることなどの要因で山下さんとはおそらく寮内で最も接触の多い人間である。それでもほとんど彼の存在を忘れた頃に顔を合わせて思い出すようなものである。山下さんが寮内に居るとすれば月初めの週末の夜。さらにそういうときは懐が暖かいらしく酒をおごってくれる。いったいどんな仕事をしているのかは我が寮最大の謎の一つである。死体洗いだという奴もいれば、新宿で男女構わず身体を売っているという噂もある。そういう、危うい妖艶さのある人なのだ。
 ある日、ひどい夕立のあったとき、山下さんがずぶぬれになって帰ってきたことがあった。部屋に入るとドアも閉めずにベッドに倒れ込み、シーツを水浸しにしたまま寝息をたてているので、仕方なく僕が床やら服やらを乾かしてやった。その後、自分の部屋に戻ってサークルの文芸誌用の文章を書いていた僕は結局深夜まで作業していた。たしか3時ごろだったか目を覚ました山下さんが僕の部屋に入ってきて少し話をした。
「世話してくれたんだな。申し訳ない」
彼の声は独特の落ち着きがある。少しハスキーで年の割に老成したような印象を受ける。しかし同時に冷たい熱を持った若さも感じるような声だ。形容しがたい。
僕は作業を続けながら、振り返らずにこたえる。
「構いませんよ。…飲まれてたんですか」
「少しね」
そういうと僕の机にコーヒが置かれた。山下さんはコーヒーにもこだわる人で、京都の輸入食品の店で買ってきた豆をよく電動の機械で挽いて淹れている。
「どうせずっと机に向かいきりなんだろ、少し話し相手になれよ」
こういう強引な気の使い方は僕には一生できなさそうだ。
「あんまり物書きばっかりしてると寮の連中に敬遠されるぞ」
「この寮の皆さんが書かなさすぎるんですよ。読んで、書いて、きいて、話してっていうのが言葉を持ってる人間の特権なんだから、もっとそれを享受すべきなんです。皆さんどれかはやるのにどれかやらない」
山下さんは僕がこういう風に話すときじっと目を離さずに聞く。そしてしばらく間を置いてから予想しないような切り返しをしてくる。
「書を捨てよ、町へ出よう。とかいうじゃないか」
「山下さんは町でお酒と雨にぬれて、わざわざ何をされていたんですか」
山下さんは苦笑いを浮かべる。
「どうも人恋しくて」
山下さんの淹れたコーヒーはとても美味しく、気分の落ち着く風味だったけど、如何せんカフェインのせいで眠れなくなってしまった。あるいはそれも山下さんの思い通りだったのかもしれないが、朝まで話し相手になる羽目になった。
 山下さんの無邪気な冗談話をききながら、彼の口から出た人恋しさという単語と、首に浮かんだ内出血の後やほのかな香水の香りについてぼんやりと考えた。その香水の香りも会うたびに違うのだからなんとも危うい人だ。