虫に駆け寄って膝をつき拾い上げてみると、体が少し破れていて体液が滲んでいた。赤い体液は僕の手のひらにも付いた。両手でお椀を作るようにした手の中にいる虫を、買ってきたモダンアート気取りの中へゆっくり移す。透明の底に黒と赤のコントラストが綺麗だった。

「なに笑ってんの。気味悪い」

追ってきたらしい女が後ろから言った。振り返って見上げるとまだ僕のTシャツを着ていて、太陽の光の下では厚化粧が一層無機的だった。何も答えないで、虫を入れたケースを抱えたまま女の横を通り過ぎて、部屋に戻ろうと階段の方へ向かった。

「おおい。なんやその子、お前彼女居ったん」

通りの方に、何の用か、小池がやってきていて僕に声をかけた。その小池も無視して僕は部屋へ向かった。

「なんやねん、機嫌悪いんかよ」

小池の声が追ってきたが、僕は部屋のドアを開けて中へ入った。小池と女がなにか話しているのが聞こえる。ケースを机の上に置いて少しほっとする。虫はどうにか生きているようで、ますます赤黒くもがいている。どうにか手当をしたいと思うが、いったいどうしたらいいのだろう。何も食べ物を与えていないし、弱っているのは間違えない。食べ物を与えたらよいのだろうか。そもそも何をたべるのだろう。幼虫だからなにかの葉っぱとかだろうか。いったい成虫になったらどんな姿になるのだろう。というより成虫になるのだろうか、この形がこの虫の姿で、死ぬまでこのままなのか。どっちにしろこのままでは死んでしまう。動物病院では虫は診てくれないだろう。お金もない。いったいどうしたらいいのだろう。死んでしまう。

「おい、大丈夫か」

ガチャリと部屋のドアが相手二人が入ってくる。小池、どうしよう、どうしたらいいと思う、と僕は助けを求めた。

「そんなん虫やろう。なにをそんなに必死になってんの。そんなんよりこの子のことほったらかしてるやんか。ていうかずっと携帯つながらんし、結構心配しててんけどな。へんな虫にかまってる暇あったら返事のひとつもくれたらええやん。お前大丈夫か、この暑いのでどうにかなってないよな」

小池の答えに僕は幻滅した。この女より小池への返事より、今は死にそうな虫のことの方がずっと大事ではないか。こんな町の植え込みでうごめいているところを、その場の成り行きで拾われた挙句に食べ物も与えられないで、ほうり捨てられ、体が破けながらも必死で這いつくばっているこの虫の命こそ、ぼくの頭がどうなってしまったかよりも大事ではないか。

「虫やけど、拾ってしまってんから世話せんとあかんやんか。このままにしてたら死ぬんやん。なに食べるんかな、なんか食べたら元気でるとか、ないかな。あ、おまえなんか知ってるんちゃうん。弱虫とかいってたやん」

僕は思い出して、女の方を向いた。僕の必死の形相に顔をしかめている。

「知ってるよ。あたしもずっと家に置いてたし。でも、世話できなくなっちゃって、窓から捨てたから…。だから、それも同じようにしてあげた方が楽だとおもってさ」

そのまま三人ともなにも言わなくなって、たぶん10分くらいそうしていたような気がする。小池がなんで虫がそんなに大事やねんしょうもない、と吐き捨てて帰っていく。玄関のドアがバタンと閉まって、女と僕と二人になった。そこからまた10分くらいじっとしていた。虫の這う、カサカサした音だけ響いていた。女が靴を脱いで部屋に上がってきて、僕の前からケースを取り上げた。

「虫がいるから、色々悩むんでしょ。じゃあこんなのいない方がいいじゃん」

中から虫を取り出して床に投げると、そのまま踏みつぶそうとした。

「おい、やめろって」

僕は女を突き飛ばして虫をかばう。よろめいた女は机の方に倒れて、ケースが一緒に床へ落ちて、8つくらいの破片になって散らばった。どこか打ったのか、ケースの破片で切ったのか、痛いっと声を上げた。そのまま嗚咽が聞こえてきたと思うと、女は泣いていた。僕の手の中の虫も、ますます弱っていて、それなのに今までにも増して必死にもがいていた。女も虫も、ひどく惨めに思えたけど、そのどちらよりもずっと自分の方が惨めに思えて、自然と涙が出てきた。

「殺しちゃえよ、そんな虫」

女が金切り声で叫ぶ。この虫をどうにかしなければいけない。そうでなければ女の言うように殺した方がずっとましだ。虫は苦痛から逃げようとしていた。僕はもう一度女と虫を見て、決意を決めると、虫を顔の位置まで掲げた。そして口の中へ、虫をゆっくり入れ、一息に飲みこんだ。飲み込んだ虫が食道を下っていくの感じるが、胃の方まで来るともうわからないようだった。僕は弱虫を飲み込んだ。


 女は、信じられない、と言って、部屋を出て行った。夏は暑さを増して、蝉が自信満々な声を張り上げていた。しょうもないと言った小池には、海の家のバイトで近々会うことになるが、虫を飲み込んだことまでは知らないから、きっといつものようにケロッとして腐れ縁が続く。虫を殺そうとした女にはもうきっと、会うことはない。