「空言」を書くときには眼に映るすべての文章が資料になる。
文章というのは言葉と言葉を繋いだものであって、その繋ぎ方や言葉の選択がキーとなる。ストーリーがあることを前提としているからといって、ストーリーが秀逸だから必ずしもいい作品が生まれると言うことではないと思うのだ。そのストーリーを展開する、読者に伝える手法がありきたりであれば、それはせっかく傑出したストーリーであってもありきたりな印象に終わってしまう場合が多いからである。
言葉の集積。
誰が書いた文章であろうと、一文節、あるいは一単語単位に分解してしまえば、そこに作家の個性を感じることはなく、単なる記号のひとつになる。のは当たり前なのだ。
でもほぼすべての文章はそうして構築されている。
私は考えた。
自分が書いた文章、他人が書いた文章。
それを作家の意志が伝わらない部分にまで分解し、ランダムに羅列させてそれを再構築する。そこに名詞ばかりが羅列されているなら、それはまったく新しい文章を書くのと同様の行為であるが、文章の構成要素すべてを内包した場合は、必ずしもそうはならないはずなのだ。
ヒントになったのはバロウズのカットアップ&フォールドインというメソッドであって、これは文章を自動生成する手法である。
とても機械的に文章が生成せれていく。複数の異なる物語がひとつの物語として構築されていくが、実はそこには作家の意志があるのではない。
バロウズは「脈絡がないのに、そこに予言めいたことが表現されることがある」という。
私はカットアップ&フォールドインを使っているわけではなく、文章は自動生成させるわけじゃなくて、すべてを機械的には行っていない。
分解と羅列を機械的に行い、その、まったくバラバラの言葉たちを繋いでいく部分に関して頭を捻る、私の空想を交え、私の言い回しで表現していく。
プロットは建てていないが、言葉の羅列を何度も発声していくうちに、そのひとくくりの文章に、ランダムに選んだ無意味な記号を使った風景が現出する瞬間がスリリングでたのしい。
「空言」は実験である。
しかもまだ全然初期である。
でも、もうすでに何度か、私が意識したのではなく、偶然のようにキーワードが一致することがあった。
これがバロウズの言う「予言めいた」ことなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
ストーリーとはなにか、より、そこに現れる偶然のような必然を探したい気がする。
ノイズにおいて、音をコラージュするように。
小説で言葉をコラージュする。
それは意味のあることか?
そんなことは知らない。
私はそれがしたいと思うからするだけだ。
「空言」が意味を持たない小説である限り。
それをしている私の作風に意味がなくても、いや、むしろ意味を持たない方が自然なのである。
この手法で「小説はこうあるべき」だから「これはタブー」という私自身が作品にたいして行おうとする検閲をひとつ残らず払拭できるはずであり、「空言」はそのための実験である。