(第1回はこちら)



時折背後でごそごそと気配を感じてはいたけれど、あえて無視していた。


まずは便所紙をロールからくるくると50センチほど引っぱり出して、キレイに4分割で折り畳み、糞犬の糞の上、丁寧にそれを被せる。その際、ブツに近づけた手にそれほど温もりを感じないことから、それなりに時間が経過していると推測できた。そして更に50センチほど便所紙を引きずり出してまたキレイに四つ折りにし、先ほどの紙と垂直に交差するようにすなわち、床の糞を中心において「×」を描くが如く、とにかく一旦隠蔽してみたわけである。

別に状況が大きく好転したわけでもないが、やや気持ちが落ち着いたので、深呼吸をひとつしてみたところ、鼻腔に飛び込んできた空気の淀み、タクアン臭さに涙を流しながら私は恥辱にまみれ、窓を開け放った。

そこから覗く野外の風景と、取り込まれる新鮮な空気に私は涙を拭い、強く生きることを決意したのだが、次の瞬間、さらに絶望の断崖から突き落とされたような気分になり一時、自殺しようかという想いが頭を過ぎったのである。

中年男が自死を決意するほどの出来事とは何か?

家の前を飼い主の中年男にに引かれて、真っ黒い巨大な犬が散歩していたのだが、私の眼前で、ツ、と立ち止まり、しゃがんで脱糞したのである。飼い主は手にティッシュを持ちながら、少々あたりをキョロキョロしていた。不審であった。よもや、と私が目を凝らすその前で黒犬は何事もなかったかのように立ち上がり、飼い主もまた何事もなかったかのように綱を引き、そのまま立ち去ろうとしている。湯気の立つ黒く膨大な糞をその場に残したまま。

要するに私は犬の糞によって挟み討ちにあったも同然の境遇に陥ったのだ。

「ど・ど・ど・ど・どっらあぁーーーーー!」

私がヘンリー・ロリンズの如くその場で咆吼すると、黒犬がその声に気付いたのか、ちょっと振り向いた。そして口の端でにやりと笑いやがったのである。

もちろんヤツは歩みを止めない。不人情な獣。自らの糞によって人様を自殺に追い込もうとしているという反省が欠如している。言語同断な悪党めが。成敗せねばならぬ。


そして私は汚辱パワーに突き動かされ、黒犬を追撃するべく華麗に身を反転し便所の扉を抜けようとして今、まさに絶命しようとしている。

それというのも、この汚辱パワーは思いの外に凄まじく、その時点での私の身の反転速度というのはちょっと数値に表せないほどの高速で、この勢いならあの黒犬&中年男コンビに数秒で追いつくであろうと予測でき、また私自身、この年齢でこの動きができると言うことに若干のヨロコビを感じたりしたほどに俊敏であったことが災いしている。

私の人生最後の溌剌とした動きが、徒をなしたとでも言うべきか、あまりに速度が速すぎて肉体を制御できなかった私は、足首を軸として反転しようとした刹那、頭部の重さに比例して大きくなる遠心力を計算する暇を持てず、結果思ったよりも大きく頭を振るような体勢のままバランスを崩し、扉を支えている便所の柱に左側頭部を強打、メリッというイヤな音が内側から鼓膜を震わせているのを感じつつ後ろによろめいた。

そして私はそのまま仰向けで宙を舞った。

よろめいた足元には例の小憎らしい「×」があり、私はそれを踏みつけたのだ。

やや時間の経過した糞は、表面こそ水分蒸発により堅くなっていたもののまだまだ中身はレアであり、私が踏みつけたことによって皮が破けて餡が飛び出した結果、それは「×」を描いた便所紙を通して足裏に付着、ただでさえ側頭部の強打によっておかしくなっている脳はそんな急場には対応不可で為す術もなかった、と言うのがその事情である。

自分の足先を見ながら私は落下していく。

このままでは潰れた糞の上に尻餅をついてしまうと、わかっていながら落下していく敗北感。しかし、尻餅の直前、後頭部が何かに激突した。

吐き気がする。

瞬きができない。

しかし、私の脳はまだ死んでいなくて、状況はすぐに把握できた。

便座である。

鋳物の便座の角に後頭部を強打し、私の眼球は慣性によっていったん頭蓋の方向に引っ込んでからその反動で眼窩の外に半分くらい飛び出してしまったのだろう、だから瞬きができないのだ。

眼球の乾きを感じる。

もちろんすでに私の尻は糞の上。

でももう気持ち悪いとか臭いとか汚いとか痛いとかそんな感覚はなくなっていた。

しばしそのまま便座を枕に横たわっていると、目の前にちょこんと座る我が家の駄犬が見えた。

やがてちゃかちゃかと足音を立てて、寝そべる私の足元まで歩き、人間のように目を細めた。

ひょいとあげた片足の向こうから黄色い小便が放たれ、それは私の足にかかっているのだけれど、本来気持ち悪いはずの生温か味も感じることはなく、私はただ啜り上げ、しゃくりあげていた。

先ほどからゆらゆらと頭上で影の揺れを感じていてイヤな予感があったのだけれど、やはりそれは落ちてきた。

私の後頭部が激突した衝撃で揺れていたのは便座のふたで、やがてそれは私の飛び出した眼球を圧し潰すように落下して私の世界は闇に墜ちた。

どうだっていいか。


どうせなら豆腐のほうが笑えたけれど。


便所の柱に頭をぶつけて、今、私は死ぬ。

空は晴れ。夕方にはきっと夕焼けが美しく、妻はりんりんと自転車のベルを震わせながら帰宅してくれる。

夕食は鍋がいい。もう今夜は労働しないから、一緒に食べよう。

季節は秋。


(了)