最近観るのは日本映画ばかりである。
10年ほど前まではこんな事はなかったように思う。
例えば、クロサワの新作とスピルバーグの新作が重なったとすれば、間違いなくスピルバーグを選択していたと思う。確かにクロサワの映画は面白いけれども、私にとっては、ハリウッドを凌駕するほどの魅力は感じられなかった。
それが今はどうか?
これは年齢的なもので、より理解しやすい作品を選ぶという傾向がでてきたと言うことも「絶対にない」とまでは言えない。しかし、実際には洋画にだって観たい映画はたくさんあるのである。しかし、それを諦めてでも観たい邦画が毎週のように公開されてしまうのだ。
今日は息子の学校が文化祭であって、息子も居合い部で演武のナレーションをする役割を仰せつかっていたから、お昼頃、家族総出で、見物に行き、息子も疲労しているだろうから、今日は家で静かにしていようと言うことになっていた。
ところが、今朝もまたいつものとおり、早朝に目覚めてしまった私は、ぼんやりとながめていたテレビ番組で
「容疑者Xの献身」
の特集を観てしまったのである。
予告はもとより、福山と堤のインタヴューなどもあって、私の中では「是非みたい」というモードになってしまった。
そもそもこの映画はパコ同様まったくのノーマークで、どちらかといえば「イキガミ」や「おくりびと」の方に興味があったくらいだし、それ以前に「ウォンテッド」や「アイアンマン」、あるいは「ハンコック」を観ておきたいと思っていたのだ。
それがテレビ番組一発でひっくり返ってしまったのである。
そんなわけだから私は
文化祭でもそわそわしている。
終わって家に帰ってきてからもそわそわしている。
ネットで調べたら18:40からの上映があったので、妻に
「いかね?」
と聴いてみたら、
「絶対言い出すと思った」
と、完全にこちらの気持ちは読まれていたわけで、シネコンのポイントも2人ぶん無料になるほど貯まっていることだし、と、仕事の長女をのぞく4人全員で繰り出したのである。
小説は未読。
テレビドラマの方は、観たり観なかったりだったのだが、観るとなんだか勉強が楽しくなるような気持ちになって「たけしのコマネチ大学数学科」と同じような印象があった。
で、映画。
堤真一。
この映画は堤真一の独壇場である。
柴崎コウの存在が希薄に感じるほど、ガリレオがたんなる狂言廻しに見えるほど、堤真一がすべてを握っている。
ひらすら抑えて抑えて抑えきって、でもそれは最後の爆発を援護するために計算されたことなのであって、この役者がこのようにただ抑えたままで終わるわけがないとわかってはいても、騙される。
献身とは何か?
その身を捧げることである。
ガリレオは物理的に「愛」を証明しようとすることが、無理と言うよりは無意味だと思っている
堤演じる数学者の石上は、献身という定理によって「愛」という答えを導き出そうとする。
そもそも定理というのは、数学者が最も簡潔に美しく答を導き出すために、場合によっては一生をかけて構築する理論である。
石上は献身こそが愛に到達する定理であるとし、それを実践するのだ。
そして、彼の計算通りにすべては進んでいくし、事実彼にとっての愛はそこに導き出されたともいえるが、彼の実践によって、新たな愛が生まれてしまい、その愛の形は石上の求めた愛とは違ってしまうのである。
彼の定理は最後に破綻する。
思うに、愛というのはひとりの人間の中だけで完結しない、他者が介在する。ずっと数式を相手に生きてきた石上にとってはそこが盲点となったということだろう。
この手のストーリーに付き物の疑問が私にはあって、それは「あえて隠蔽しなくても、そもそもその殺人は正当防衛なのだから、まっすぐに警察に届ければ事は済む」のである。
しかし、この作品では、それさえもおそらく石上の計算に入っていたのだとさえ思える。
殺人を犯した女が自首しようとするのを石上は制止し、彼女をかばうために献身を始める。
これは、石上が彼女への愛を自分の定理(献身)によって導き出そうとするために、あえて隠蔽したのだとも取れるのである。
と、すれば石上の献身こそが罪であり、彼女への献身のために新たな犯罪に手を染めたこともまたしかりである。
だが、定理は破綻していたにも関わらず、彼の愛は彼女に届いた。
こう考えると、ガリレオの言うように、きっとこれは証明することが無意味なことなのだろうな。
面白い。
実に面白い(笑)
この映画。
私が見落としただけかもしれないけど、今回のガリレオはフレミングの法則を模したあの不自然なポーズをやってないんじゃないか?
数式をそこら中に書きまくったりもしてないんじゃないか?
その演出すらもメッセージかもしれないね。
愛は法則に従わず、論理的な証明もできないと言うような。