「そうそう。来週の週末は空けておいてよ。僕の実家に行く予定だから」
「えぇ、憶えているわ。楽しみにしているの」
「そう? それは良かった」
「じゃあ私、そろそろ帰るわね」
「それなら、僕も早く休もうかな」
「明日の朝は、早いのでしょ?」
「うん。シャトルが、6時半に来る予定なんだ」
「じゃあ、気をつけてね」
「ありがとう」
「おやすみなさい。良い旅をね」
「チャオ、チャオ、お休み」
 そうして頬にキスのあいさつをしてから、早めに私は部屋に戻った。

 眠る前に目覚ましをセットしようかどうしようかと、私は迷った。
 明日は仕事はお休みだけど、アランが6時半にシャトルで出かけると言う。

 こういう場合には、下まで降りて行ってらっしゃいを言うべきなのかしら? アランの好意は感じているし、私もアランに好意を抱いているけれど、そこまでするには、まだ早く、なれなれしいかもしれない。でも時間を知って見送らないのは冷たくないかしら?

 迷った末に、私は見送らないことに決めた。
 もうすでに挨拶は済ませたのだし、急いでいる時に私が行っても煩わしいかもしれないと思った。
 そんなことを考えている内に、ワインのせいか、すぐに眠気がやって来た。

 翌朝、携帯電話の音で目が覚めた。
「もしもし、おはよう。アランだけど、ちょっと困ったことになったんだ」
「おはよう、アラン。一体どうしたの?」
「シャトルがね、事故に巻き込まれて渋滞で動けなくなったらしいんだ。それでまだ代わりの車が来られないし、タクシーも30分後しか手配できないらしい」
「まぁ、大変じゃない。それで、どうするの?」
「かすみ、運転が出来るって言っていたよね?」
「えぇ、出来るけど」
「車で行けば間に合うと思うんだ。でも帰りは、ここまで運転して帰って来られる?」
「大丈夫だとは思うけれど、私、そんなに大きな車を運転したことはないわ」
「ゆっくり運転すれば大丈夫だよ。GPSも付いているし、車両保険にもしっかり入っているから、少々ぶつけても問題ない」
「そう。分かったわ。十分以内に部屋を出るけど、それでいい?」
「ごめん。助かるよ。じゃ、待ってるから」

 私はとりあえず洗顔を済ませ、一番前にあったワンピースに袖を通すと、部屋を飛び出してアランの部屋をノックした。
 アランも玄関先で待っていたようで、「ごめんね」と言いながら、すぐに部屋を出て来た。エレベーターはちょうど私たちの住むフロアーに停車していたので、大小二つのトランクを引きずりながら飛び乗って、地下駐車場まで降りる。
 そこからは、もう驚きのスピードだった。

 国際便のフライトは、出発時間の二時間前までには、チェックインを済ませていなければならない。
 アランの乗る便は9時15分発で、空港に到着したのはぎりぎりだった。
 ともかく出発ロビーに一番近い駐車場に車を乗り入れると、アランがGPSを帰宅用にセットしてからキーを抜いた。
「これで、次にスタートボタンを押せば、自宅へナビゲートしてくれるからね」
「えぇ、わかったわ」
「あ、これ、鍵とパーキングチケットだ。それで、支払いは……」
 お金を出そうと、ポケットを探ろうとしたアランを止めて言った。
「帰ってからでいいわ。それより、急ぎましょう」
 そう言って車を降りると、トランクからアランの機内手荷物用の小さいキャスター付きバッグを取り出して、一緒に走った。
 チェックインカウンターに辿り着くと、係の女性にEチケットを渡して、無事に搭乗手続きは済ませた。
 けれども係員に「時間がぎりぎりだから急いでください」と言われ、アランとパスポートチェックカウンターの前まで、また走った。
「気をつけてね Bon voyage!」
 私は荷物を渡し、息を切らせながらそう言った。
 アランも同じように息を弾ませながら「本当にありがとう」と言ってから、どさくさに紛れてさっと私の肩を抱き、頬と唇にキスをすると笑った。
 私は「あっ」と思いながらも、「メールを書くよ」と手を挙げ、去って行くアランに手を振った。
 やがて、アランがゲートの向こうに消えて行くのを見送ってから、ポケットの中にある車のキーの重さを確認した。

 こんなに焦って走ったのは久しぶりのことだった。
 何とか間に合ったと思うと、緊張が一気に緩んだせいか、急に笑いがこみあげて来た。