3階というのは日本で言う4階に当たる。

 ここからだと、遠くに背の高い建物がそびえ立っているのが見えはするけれど、近くにはなかったために、街を俯瞰する事が出来る。
 手すりにもたれ、美しい街並みを眺めながらグラスを少しずつ傾けていると、気持ちが落ち着いてきた。
 そろそろ9時半だというのに、まだ夕焼けのまま空は明るい。

 まるで時間の流れが遅くなったように思えた。

 (そうだ。ここにも小さなテーブルと椅子を置こう)

 時折、ここで食事をするのも悪くない。

 食事・‥というところで、桑原のことをまた思い出した。

 考えてみれば、他に知り合いもなく、桑原にしてみると言葉もおぼつかないのでは、他に頼る人もいないのだ。

 確かにプライベートの時間に踏み込まれるのは、迷惑だと思うけれど、それなら、そうされないように、こちらも前もって情報を提供しておくべきなのかもしれない。

 とりあえず、しっかりと線引きが出来るように努力をすることで解決を図ろうと思った。

 翌朝は、かなり早くに目が覚めた。
 身支度を整え、朝食と片付けをさっと済ませると散歩に出かけてみることにした。
 これが日本にいたならパソコンのスイッチを入れ、ニュースやメール、SNSをチェックしていたところだろうと思う。
 けれどもここでは電話回線もまだ繋がっていないし、TVも観られない。
 桑原のアパートも同じ状態なので、月曜日に手続きをすることになっていた。

 部屋の鍵をかけるとエレベーターで地上階に降り、表に出た。
 一瞬どちらへ向かって歩こうかと迷ったけれど、昨日乗ったトラムの駅のあるのとは反対側へ行こうと思い、スーパーマーケットの方角へ向かった。
 じっくり街の様子を確認しながら歩いた。
 昨日、食料品を買いに出かけた時には慌てていて気が付かなかったけれど、郵便局や銀行の出張所もあるし小さなブティックも何軒かある。

 日曜日でほとんどの店舗は閉まっていたけれど、ポツンと花屋さんが営業していて、中華料理店やイタリアンレストラン、この国が発祥で名物のポテトフライを売っているフリッツ・ショップもあった。
 小さな街だけれどなかなか便利そうだ。
 土地がほぼフラットなので、やはり自動車よりも自転車を購入する方がいいかもしれないと思う。
 その先ですぐに商店が途絶えた。
 一瞬、引き返そうかとも思ったけれど、時間はたっぷりある。
 もう少し探検をしてみたかったので、住宅街に入ると美しい家並みを眺めながら歩き続けた。
 すると、やがて林に辿り着いた。
 背の高い白樺の木の間をくぐって少し奥に入ると、大きな池があり鴨が子供を連れて泳いでいた。
 まだ疲れてはいなかったけれど、この風景が気に入ったので池の端に置かれたベンチに腰掛けて、しばらく休憩をすることにした。
 今日もいいお天気で、木々の緑は鮮やかだ。
 見上げれば濃く青い空に、幾筋もの飛行機雲が描かれている。
 それらは、まるで子供の落書きのように見えた。
 日本を出てから2週間。
 引越しをして来たという感覚が、まだ身に付かない。
 旅行者気分で眺める景色は全てが温かく、それでいて絵のようにも思えた。
 
 ぼうっとしていたところへ、小型犬を連れた老紳士が通りかかり、

「ボンジュール!」

と挨拶をしてくれた。
 咄嗟には口がフランス語にならないことを、自分でも意識しながら応えたので、私の「ボンジュール」は、ぎこちないものとなった。
 そういえば、と老紳士が通り過ぎてから、これが今日最初に発した言葉だと気が付いた。
 日本にいた時も一人で暮らしていたので、お休みの日には話をしないこともあったけれど、大抵は親しい友人と外出をするか電話で話をしていた。
 海外で、誰も知らないところへ来たのだから仕方のないことだ。
 理屈では理解できるけれど、寂しくないと言えば嘘かも知れない。
 それでも、参加する予定にしているフランス語の夏期講座が始まれば、友人もできる筈だからと楽観的に考えていた。