紅色道楽 -39ページ目

考える事

自分の知識や経験に基かない思考というのは結局的外れなんだ。

インターネットが普及してSNSに登録するのが当然になり

人の知識や意見を垣間見ることが増えた。

テキストの力は強く、耳で聞いた情報よりも信ぴょう性がある気がしてしまう。

しかし、たとえその時読んだAという意見が正しいとしても

筆者はAと考える理由や根拠までは説明しない。

そこで筆者はBだからAになると考えるところを、読者がCだからAなのだと推測して広めてしまえば

内容が容易に変質してしまう。

デマの誕生だ。


この活字離れ社会で、きちんと長い文章を読む人は少ないという事はあまり知られていない。

みな話題の新書や流行作家の小説を読んだだけで「自分は活字離れしてない」つもりになり

(話題の新書や流行作家がその時代で最も優れた内容を書くことはない。

骨のある文章を読める一般大衆など存在しないからだ。

読者がいなければヒットはしない。よってそれらは将来的に学術的に評価されるものから一段劣る内容になる)

インターネット上の匿名の偉そうな誰かなら、なおさら詳しいだろうというポジティブにも程がある思い込みをする。

そういった人々はおそらく実生活でハッタリをかましたりしたことがない

心根が素直な人なのだろう。


上記のような状況において最も無駄なのが

間違った情報を元に他に材料も無く、勝手な思考を組み上げることである。

考えていることを楽しんでいるという自覚があるうちはいい。

ただ思考を弄んでいるだけなのに、深刻に悩んでいるつもりになり始めたら手遅れだ


そういう人を正に「馬鹿」と呼びたい。


寺山修司は『書を捨てよ町へ出よう』という本を出したが

(ちなみにタイトルがキャッチーだが大して名著だとは思わない。

この本に影響される人はかなり単純な人だろう)

まあ、その通りである。

街を歩いていると案外人々が元気に暮らしていて

自分もそれに馴染んでいるということに気付く。

インターネット上ではニュースはスキャンダラスでないと盛り上がらない

だから世間のマイナス面ばかり取り上げられるが

政治家になるんでもなければ、気にしたって仕方のないことばかりだ。

その上選挙には行かないのだから救いようがない。

政治学を囓ると若者が蔑ろにされるのは票田にならないからだとすぐにわかるのに。


インターネット上で意見を言ってもとてもミニマムな影響力しかない。

現代の若者は貧乏なので割と安易にインターネット漬けになって、

それが世界の中心だと錯覚しがちだが、今のところインターネットは「非現実」である。

インターネットをあまりしない現在の50代以上の人々が死に絶えた後はわからないが。


そういうわけで

私は考えをこねくり回すなら楽しくやりたいと思う。

シリアスごっこはうんざりだ。