11月。急に気温が落ちて肌寒い日が増えてきた。 

一年で一番服装に悩む季節だ。

そして今日の自分はその選択を間違えたらしい。


ジェノスは空を見上げると溜息をついた。

空気が澄んでいて星が良く見える。要するに気温が低いのだ。

「昨日まで常夏の国にいたからなぁ…」

そう呟くと、隣を歩いていたシャオリーが首を傾げた。

薄手のジャケットにカジュアルタイ姿の自分とは違い、シャオリーはトレンチコートにマフラーを巻いている。街行く人々の服装を見ても、シャオリーの方が正しいようだ。

「…あのね。シャオ。さっきまでその話してたでしょ?」

あぁ、と頷くとシャオリーは微笑んだ。

「そういえば。でも今日こちらに帰って来たとは聞いていませんでした。

ディナーに誘って頂いたのは嬉しいですが、お疲れではありませんか?」

珍しく労われて、ジェノスは頬を緩めた。

「全然。むしろシャオがこっちにいるって聞いたから早く会いたくてさ」

そう言うと予定が空いていて良かったです、とシャオリーはジェノスに右手を差し出した。

ジェノスが反射的にその手を取ると、驚くほど冷たい。

「シャオ、俺よりあったかい格好してるよね?」

なにこれ。

素直に感想を口に出すと、シャオリーは憮然とした顔でこちらを向き直る。

そして空いている左手をジェノスの首に当ててきた。

あまりの冷たさにジェノスがよくわからない悲鳴を上げると、満足したようにシャオリーは左手を離す。


「僕は冷え性なんです。ジェノスさんはとても寒そうな格好をしているのでちょっと心配になったのですが…」

これなら全然大丈夫ですね。

飄々とそんなことを言うと、シャオリーは右手を離そうとする。

その手を強く引っ張ってジェノスはそのまましっかり繋ぎ直した。


「そんな意図はなかったんですけど」

そう言いつつもシャオリーは特に抵抗せずに笑っている。

今日の彼は機嫌が良いらしい。

その理由が自分と会えたからだったらいいのに。

そんなことを思いながらジェノスは聞こえないふりをして微笑んだ。



「僕はあなたといれば、きっと一番幸せになれるのでしょうね」


唐突に。


そう。唐突にそんなことを言われて。

嬉しいという感情の前に、一瞬心に影が過った。

それはきっと告白の言葉だったはずなのに。

どこか諦めの気持ちが滲んでいたせいだと、ジェノスはすぐに理解する。





「シャオ。どしたの急にー」

何も気付かないふりをして、そうおどけて振り返ると。

当の本人はいつもの笑顔をどこかに置き忘れたように、静かにジェノスを見据えていた。

「優しいですし。…いつも僕のことを大切にしてくれていますし」

あぁ、揺れている、と。そう感じた。

「僕は、安心してあなたに全てを委ねれば良いだけなのに」

誰かと、自分を重ねている。

…比べられているのではない。比べられてすらいない。


そこで言葉を切ってシャオリーは目を伏せた。


その気持ちはジェノスにも覚えがあるものだった。

お互いに気持ちの重さが同じ恋人同士なんて滅多にいない。

特に自分達の場合、天秤は明らかに不均衡だ。


ジェノスはそれを楽しむことに決めている。

どうせ何の道徳にも関心はないのだから、少しずつでも天秤を揺らすことが出来ればいい。

けれどシャオリーはそうではないのだ。


いつまでも均衡が取れない事が苦しいのだと、そう訴えている。

それは自分の感情の所為なのだと。

まだ、心に影があるのだと。


年若く見えるシャオリーだが、実年齢は大してジェノスと変わらない。

傷つくことを恐れるこの生き方は、生来のものかそれとも。



それでもジェノスは少しだけ年下の恋人がとても愛しいとそう思う。

まだ心に嘘を吐くシャオリーを少しずつ揺らして、最後に自分のものになればいい。


ジェノスはそっと唇を寄せてみる。

シャオリーはそれを拒まずに目を伏せた。

いつもなら理由をつけて逃げるのに。


情緒不安定になっているのか、それとも。


「…今は誰かの代わりでもいいんだ」

いつか、好きになってよ。


そう言って返事を待たずに口付けようとすると、シャオリーはそれを押し留めた。

「ジェノスさん、少し誤解があります」

確かに、僕はまだ迷っているけれど。

「それでも僕はあなたが好きだと、思っています」

今度はまっすぐジェノスの瞳を捉えて。



シャオリーからキスをされたのは、実はこれが初めてだった。

久しぶりにもらった休暇がシャオリーと同じ日だった。


それを知ったのが休暇の前日のディナー。

ワインが美味しいイタリアンレストランで、夜景を眺めていたらふとそれを思い出した。

向かいでクランベリージュースを飲んでいた彼に明日がオフなのだと自慢してみたら、「僕もです」と言われたのだ。





これは。



誘わなければ男じゃない。





次の日。ジェノスはシャオリーを助手席に乗せて、郊外の森の中を走っていた。

適当に調達してきた車だが、そこそこ乗り心地は良い。

せめて数日前に遠出することが分かっていれば高級車をチャーターしたのだが、さすがに昨夜からでは手配が間に合わなかった。

デートの時は全力で相手を楽しませたいと考えているジェノスは若干それが不満だったが、当のシャオリーは全く気にしていない様子だ。

いつものスーツではなく、上質のコットンシャツにベージュのパンツ姿というリラックスした雰囲気のシャオリーは車窓から景色を眺めている。

「しっかしシャオが森林浴が好きだったとは意外だったな」

「そうですか?」

景色からジェノスに視線を移すとシャオリーは首を傾げる。

「だってシャオ、夜景好きだろ?自然と全然…なんていうか真逆じゃねぇか」

あぁ、と納得したようにシャオリーは頷くと、またいつもの顔で微笑んだ。

「森林浴、とは言いましたが…別に自然が好きで仕方ない、というわけではないのですよ」

ただ、落ち着くんです。

とそう付け加えて。シャオリーはまた景色に目を移した。

「まぁ、人間も動物でやんすからねぇ…」


たまには、自然の空気に触れるのも悪くないかもしれない。


そうジェノスが思ったところで、シャオリーが声をかけてきた。

どうやらこの辺りが良いらしい。

適当なところに車を停めて、シャオリーと外に出る。


真夏だが、木々に囲まれて直射日光は届かない。

都会にはない静けさと、また密やかな動物の気配が感じられた。


ざくざくと迷いなく落ち葉を踏みながらシャオリーが歩いてゆく。

ジェノスは一度振り返って車の位置を確認し、それからシャオリーを追いかけた。


15分ほど歩くとシャオリーは立ち止り、そのまま木の根元に腰を下ろした。

足でも挫いたのかとジェノスが駆け寄ると、シャオリーは苦笑して手を振った。

「ここで暫く休みましょう」

そう言うとシャオリーは目を閉じる。

眠るつもりはないようだが、当分動く気もないようだ。

することがなくなったジェノスは仕方なく、シャオリーの隣に座ってみる。

とても自然な仕草でシャオリーが少し体重をジェノスに預けてきた。

全く無意識の行動らしく、ジェノスは苦笑する。


「ねぇシャオ。落ち着く?」

はい、といつもより穏やかな声が返ってくる。


「…僕の生まれた国では神様は自然の中にいる、と言われていました。」

唯一神ではなく、火には火の神様が。森には、木の神様が。

「森羅万象全てに意味があり、また天の意思があると」

だから、僕の依り処は教会にはないのですよ。とシャオリーはそのまま言葉を続ける。

初めて聞く風習と考え方に、ジェノスは少し戸惑った。

ジェノスにとって神とは恐怖を与える存在でもあったからだ。

こどもの頃は悪戯をするたびに「神に地獄に落とされる」と親に脅されたのを今でも覚えている。


「…まぁ、もちろん常日頃から神様を信じるような人ならこんな仕事はしないでしょうが…」


ただ、たまに。無性に。


「ここには神様がいるような、そんな気がするのです」


会いたくなる瞬間があるのだと。




ジェノスもシャオリーに倣って目を閉じてみる。

外敵がいないとわかるこの静けさと落ち着きは貴重なものだ。

自分にはシャオリーのような感覚はまだ得られないが、それでも。


「いい休みになったよ。ありがとな、シャオ」


そう言って頭を撫でると。

シャオリーは珍しく照れたような顔をして微笑んだ。

これはシャオリーの変装だ。


頭ではわかっていた。

けれど気付かないふりをしたのは、


「彼女」が泣いていたからだ。





人気のない路地裏で。

たまたま通りかかったのが自分でなければいったいどうするつもりだったのか。

それすらも予測していたのかもしれないが、今の「彼」はとても危うげに見えた。


背中に流れる黒髪は、日に透けて亜麻色に反射する。

いつもは無造作に束ねているそれも今日は結わずに風に遊ばせて。

涼しげな緑の瞳は確かにシャオリーのものだった。

…だから その 涙も。


自分だと気付いてほしいのか、

それとも気付かないふりをしてほしいのか。


「彼」を残す特徴はそれだけで、あとは完璧な女性だった。

スリットの入ったタイトスカートから伸びる細い足。

ご丁寧に胸も作り、顔は元と似ても似つかぬ厚化粧。

こういう「典型的なイイ女」がタイプだと思われているのだと気付くとジェノスは頭痛を催した。


「お姉さん、どうしたの?美人が台無しだ」


わざと気付かないふりをして。

ジェノスは軽口を叩いて見せる。


「あら。涙は女の一番の武器だって知らないの?」


そう言ってその美人は人差指で涙を弾いて笑って見せた。

不敵で、それは酷く 扇情的な 表情だった。



「私、失恋しちゃったみたいなの」


だから、お兄さん慰めて?


赤い唇で、至近距離でそんな風に誘って見せる。


「…一体どこで覚えてきたんでやんすか」


小声で低く呟くと目の前の瞳が揺れた。

離れようとする腰を強く引き寄せて、ジェノスはそのまま口づける。


甘い香水が鼻腔をくすぐり、ジェノスの情欲を煽ってゆく。

「彼女」はキスに慣れていないらしく、ジェノスの胸をこぶしで叩いて解放を訴えた。

それを無視して何度も口づける。

「彼女」の体から完全に力が抜けたところでジェノスはそのまま抱えあげた。

「このままどこかで続きをしようぜ」と囁いて。

「彼女」は一瞬びくりとしたが、そのまま目を伏せてジェノスの胸に身を預けた。


高級なところじゃなくたっていい。

だってこれは「彼」じゃないから。

ジェノスの好きな、大切にしたいあの人ではないのだから。

ただ一晩、男に振られた可哀そうな「女」を慰めるだけだ。



明日の朝にはお互いに酷く虚しさを覚えるだろうが、今はそんなことどうだっていい。


それは優しさなんかじゃないということは本当は分かっている。

だけど、どうしても今夜は一人じゃやりきれないのだと。


好きな人が、そう泣いているのだから。


「杏仁豆腐、ですか」


箱を開けてすぐにその正体がわかったらしい。

珍しいですね、とにこりと笑う。

どうやら気に入ってもらえたようだ。


「シャオなら知ってると思った」


それを買ってきたジェノスは備え付けの簡易食器棚からカトラリーセットを取りだした。

応接間も兼ねる執務室の別室には、生活するのに不自由ない程度のキッチンスペースがある。

それらは全て上品な調度品ばかりで、それを設計した者の高い美意識を覗わせた。

しかし全くその価値に囚われないジェノスは行儀悪く足で引き出しを閉める。

それを咎めることもせず、シャオリーはおとなしくテーブルの前で待っている。

「シャオ、今食べるだろ?お茶いれてよ」

ジェノスが呼びかけると、あぁ、と気付いたシャオリーは簡易キッチンスペースに向かった。

上品なクイーンアン調のサイドテーブルにお茶のセットを整える。

それから手早く中国茶の茶葉を取り出して、湯を沸かした。

手なれた動作にジェノスは内心で感心する。

きっと執務中もこうしてお茶をいれて休憩したりしているのだろう。

適当にコーヒーを買って、なんとなくブレークタイムを過ごす自分とは大違いだ。


どうかしましたか、と首をかしげて聞かれたのでジェノスは笑って手を振った。

もう一回お茶を淹れて見せてくれ、と言ったら、彼はどんな顔をするだろう。



飴色でよく磨かれたテーブルに準備したお茶と主役の杏仁豆腐を置く。

お互い向かい合わせにソファに座ってスプーンを手に取った。


杏仁豆腐の仄かな甘みと、爽やかな香りを堪能する。

しばらく無言で楽しんだ後、シャオリーがありがとうございます、とつぶやいた。

「なんだか懐かしい味です。この辺りでは売っていないと思っていたのですが…どこで買ったのですか?」

「この前東の方に用事があってさ。空港で売ってたんだ。シャオ好きかなと思って」

ジェノスの言う「東の方」とは勿論この大陸の東のことではない。

飛行機で何時間もかけて行く、異大陸のことだ。


そうですか、と微笑うとシャオリーはまたスプーンを口に運んだ。


「味覚というのは不思議ですね。」


それだけをぽつりと呟いて、あとはシャオリーは一言も喋らなかった。

何かを思い出しているのかもしれない。


いつも飄々としているシャオリーがなんだか少し儚げに見えて。

ジェノスはそんな彼を見られたことに満足していた。

正直杏仁豆腐を傷ませずににここまで運ぶのは手間だった。


だけど、こんな風に無防備な彼を見られるなら。


「また買ってくるでやんすよー」


わざとおどけて見せると、シャオリーは笑った。

「楽しみにしています、ジェノスさん」



シャオリーの淹れたお茶もとても美味しかった。

この組み合わせで、きっとシャオリーはお茶をしたことがあるのだと

見たこともない少年時代を思って、ジェノスは柄にもなくノスタルジーに浸ったのだった。