さて、私はエロゲーマーである。去年クリアしたエロゲは30本を超える。そんな私が素朴に疑問に思うのは、エロは「ある」のか?ということである。

どういうことか。

 エロというのは、モノの側が持っている性質であるのか、それとも我々の主観に依るものなのか、ということである。

 具体的に考えていこう。

 例えば、2次元美少女のエロ絵を想像して欲しい。
その絵の2次元美少女はしなを作って顔を赤らめ、はだけた胸元を懸命に隠そうとしている。ポニテの垂れた先に白いうなじ見え、スカートからはすらっと伸びた白い足。スカートの裾はめくれ、清楚な白い下着が覗いている。

 これは誰が見てもエロいだろう。こんなものが渋谷のスクランブル交差点に飾ってあったら、ツイフェミ大激怒不可避だ。エロはモノの側にある性質なのかもしれない。

 では、普通に制服を着た道端を歩いている女子高生はどうだろう。これは割れるのではないか。特に女性はエロいとは言わないかもしれない。しかし、それなりの数の男性はエロいと言うかもしれない。

 2次元美少女に触手が絡んでいるイラストは?
 オタクなら喜ぶかもしれないが、非オタは結構拒否反応を示しそうである。「気持ち悪い」が先にくる人がいてもおかしくない。

 触手単体だとどうだろう?
 エロ漫画脳の童貞おじさんならエロいと言いそうだが、何も感じない人も多そうだ。

 このように、「エロい」と感じるかどうかはかなり個人差がある。
 モノの側に「エロい」という性質がある場合、誰が見てもそれは「エロい」はずである。丸いものは誰が見ても丸いように。しかし、実際は人によってエロいか否かの見解は変わってくるのだ。

 ならば、エロいという性質がモノの側にあるなどということはなく、主観の問題に還元される。個々人の価値観によるもので、モノ自体はエロいとかエロくないなどという性質は持ち合わせておらず、エロというのは「個人の感想」でしかない、ということだ。

 さて、ここまでの議論にいったい何の意味があるのだろうか。

 それは、オタクならだいたい関心のある、性表現規制である。

 モノの側にエロいという性質があるなら、公的な場から過激な性表現を追い出す、というのは規制として有効である(ここでは性表現を規制することの是非自体は置いておくとする)。
 なぜなら、モノを排除すればエロいという性質も消えるからだ。
 しかし、エロがモノの側にある性質でなく、人の主観に依存するなら、話は全く変わってくる。
 なぜなら、主観に依存するということは、理論上、どんなものでも誰かにとってエロく見える可能性があるし、逆に、どんなものでも誰かにとってエロくないように見える可能性もあるのである。

 「全裸の女性の絵が飾ってある」と言われたら、なんとも卑猥な響きを感じるだろうが、それがルネッサンス期の絵画であったらどうだろうか。あるいは、有名なミケランジェロのダビデ像は股間丸出しの全裸だが、あれにエロを見出す人がどれだけいるのか。

 エロが主観に依存する場合、あらゆるものが誰かにとってエロく見える可能性を持ち、同時にあらゆるものが誰かにとってエロくなく見える可能性を持つ。

 この場合、エロの規制は困難を極める。多数の人間が過度にエロいと思う表現も誰かにとっては普通だし、逆に多数の人が気にしなくとも誰かにとっては耐え難いほどエロいかもしれない。
 これでは、規制対象のボーダーラインを引くのはムリだろう。ボーダー上の誰かは必ず不満を持つ。

 この場合、性表現を公共の場から排除するより、エロを見出す側にアプローチをかけていくのが有効だろう。なぜなら、エロは人間の価値観に左右されるのだから。

 しかし、少し待って欲しい。これで本当に決着は着いたのだろうか?本当にエロは主観に依存しているのか?エロはモノの側に付随する性質であると言えないのだろうか?

 例えば、ドラゴンカーセックスとかいう意味不明なジャンル(ミーム?)がある。それでなくとも、ハードなリョナなど(斬首とか)は、一般的に言って理解しがたい性癖と言って良い。それらにエロを見出す人々の感性は、大抵の場合は理解できないだろう。

 これは、それらにエロを見出す彼ら(あるいは、彼女ら)が「誤っている」からだ、と言うこともできる。
つまり、彼らはエロいという性質の無いところに誤って、錯覚のようにして、エロを見出してしまっているのだ、と考えることもできる。

 以前に述べた制服の例に戻ろう。制服にエロを見出すのは、「錯覚」であり、主観の側が誤っている、と言う主張は成り立つだろう。

 さらに言うと、初めて見た癖やシチュでも、直感的にエロを感じることはある。
 この状況を説明するには、モノの側にエロいという性質があると考えたほうがスッキリするだろう。尖ったモノは初めて見たものでも尖って見えるように。

 そうすると、「エロい」という性質がモノの側にあるようにも思えてくる。
 この場合、性表現規制はとても有効なものとなる。

 さて、実際はどちらなのであろうか?
 エロはモノの側が備える性質なのか?それとも人の主観に依存するものなのか?

 この問いには、現状では答えることは難しい。

 そこで、少しひねってみようと思う。


 私は、暫定的に「人の主観に依存する」として考えることが有効だと考える。
 人が正しくエロを見出しているか否かは、現状では知りようがない。この世にはロリコンもいればドMもいれば、ハードなリョナラーもいる。
 彼らが正しくエロを捉えられているかは確かに問題だが、それを確かめようがない以上、何かを考えるときは、それを留保したうえで、エロは主観に依存するものとして考えを進めたほうが議論が進むのではないか。
 なぜなら、正しくエロを見出す方法など、現状は存在しないのだから(あるいは、未来永劫存在しないかもしれない)。

 ならば、エロは主観に依存すると考えて物事を進めるしか無い。
 始めに掲げた問に正面から答えることはできないが、この考え方で思索を進め、問題が生じたら立ち戻るのが、現状での最善と思われる。