わたしはどうしたいのか

何ができるのか

 

よくわからなくなる


自分のことは

一番よくわからない

 

そんな言葉を聞くことがある

はたまた

答えは自分の中にある

 

そんな言葉も聞くことがある

 

 

わかっているようで

わからない

 

わたしにとってわたしはそんな存在だなと思う

 

 

人からどんなふうにみられているのか

人の集まりの中で、どんな立ち位置に自然と立っているのか

どんな反応をするのか

どんなことがあるとうれしくなるのか

どんなことがあると嫌な気持ちになるのか

 

そんなところがヒントなのか

それだって、生まれた時からインストールされた何かによって

多大なる影響を受けていて

自ずから移り変わっていったりする

 

わたしとはなんなのか?

 

 

 

わたしがわからない苦しみ

どうしたいかわからない苦しみ

どうしたらいいのかわからない苦しみ

 

 

昨日、ふっとみかけた投稿で

明治の文豪はなぜメンヘラなのか?という問いと

それは、明治以前の日本語には主語がなかったから

という見方があった。

 

ちょっと元投稿は見つからないんだけど

 

確かに

わたしという感覚がなかったとしたら

どんな感覚なんだろうなと思う

 

その時

意識は、わたしたち意識だったのかな。と思う

 

 

わたしたちはどうしたいのか?

わたしたちは何を望むのか?

 

健やかな個人と健やかな社会

 

健やかな生き方

健やかな働き方

健やかな暮らし方

 

そこへ向かうには

一旦、目の前の健やかじゃないところと

対面する必要がある

 

痛さ、苦しさが伴う

 

 

その時必要な力は

観察力

問いの力

立ち直り力

助け合う仲間

 

そんな力と仲間を
作成している手帳とコミュニティを通して育むことができたら

とてもうれしい

 

 

のいともこ