愛が全てなのか
忙しい土曜日。二直明けで待ち合わせが2件。ひさしぶりに前の組のMちゃんに会う。仕事のできると言われるMちゃんに仕事を早くするコツを聞くと「自分が楽したいからに決まってるじゃん」とのこと。目から鱗、禿同。

少し荒れ気味になっているので、少し書くのを躊躇っているのですが。。。
思うのだけれど、理想論ってのがあるのですが、それはあくまで理想であって、必ずしも実行可能だということでもないと思うのです。しかし、理想というものはあって然るべきだし、それを実行するということが正しい方法だとも思うのです。

しかし、例えば「働くということ」については、実はそれほど難しくもなくて「生きていくため」というものが最大の目的だろうし、なにも自己実現や社会貢献、愛社精神なんてこと以前にあることだと思います。

価値観の多様化、なんて言われていて、その「働くということ」、その目的が複雑化していると思います。団塊の世代の人たちですと、その「生きるため」ということに「庭付きの家を買うため」なんてことも加わったのでしょうし、「三種の神器を買う」ということも更に加わって、巨大な消費経済がこの国を支えてきました。ところが、もうそういったものが生まれた時点であった団塊ジュニアたち以降にとっては、「働くということ」その理由探しということが始まったのだと思います。

このブログでも何度かその問題について書いてきましたし、「憲法で決まってるんだから」なんて勤労の義務を引き出して、少し自棄気味に論じたこともあります。

ただこのブログの根底にある、例えばある人が言う「叙情的」な部分、例えば「詩的な」と表現される部分は、実は、「理想の限界」が来たときに見る夕陽のようなものなのだと言うことなのです。ボクはそう思っています。

限界というのは、なにも理想だけではなくて、「壁」と言われるもの全てを意味しても良いでしょう。その、例えば年齢の壁が来たときに、「中高年と期間従業員」というカテゴリーの記事では、「その人たちの悲しみはなんなんだ」ということを書いてきたと、ボクは認識しています。

だれもが、まずは理想を持っているのだろうと思います。それは「車を造る」ということ、例えば製造業に必要な商品への愛情や造ったものへの誇りなんてものを抱くのは、たいへん重要なことだと思います。

ところが、それだけでボクたちが労働しているわけではないですし、特に期間従業員の多くは何も「トヨタが好きだから」なんて考える余裕すらないというのも実情だと思います。それはトヨタの巨大な雇用力というものを背景に言っていることなのです。

ですから「働くということ」は、やはり多種多様な「愛」だとボクは言い続けているのです。自己愛とか家族愛とか、そしてトヨタ愛もその一つでしょう。自己愛の前には家族愛も捨ててしまうことだってありますよね。それが「限界」なのだと思います。人はずいぶんと利己的なものですから、ボクは人のためだけ、とか、会社のためだけなんて理由で働くということについて、どうも懐疑的になってしまうのですよ。

結局は、自己を含んだ愛情こそがボクたちを動かす原動力だと思っています。トヨタ愛なんてのも、結局は自己愛というものを含んでいるでしょうしね。まして家族愛なんてのは、自分が中心かもしれないし…。

この歳になって就職活動をして、地元での年収と比較して「トヨタしかなかった」というのが最大の理由です。でも、いくらトヨタしかなかったからと言っても、それにはやはり「愛情」があったからこそ、この地まで来ているのですよ。なにもトヨタが好きだとかいう、これも選択の余地なんてのはなかったですから。そういう選択ができる人もいれば、選択も出来ない人もいる、ということをまず始に考えなければ、「じゃあ、トヨタも好きじゃないのなら来なきゃいいじゃないか」なんてことは言えないと思うのです。

労働と雇用というのは、なにも一対一で結びついているものではないのですからね。「トヨタしかない」という状況も格差問題の根深さだとも、書いてきたのですよ。みなさんのコメントを読んでいて、実は眠れないのですが、どうもどこかでクロスオーバーしていて、「そんな時代もあったよね」なんてことなのかもしれないと、ボクは思ったりもしているのです。

それは「生きる」ということにおいても、夢も希望もあった時代もあって、それが徐々に狭められるような感じなのかもしれません。ちなみにボクの小学校の卒業文集の夢は「宇宙飛行士」でしたよ。今は、いくら足掻いても…99%は無理かもしれないですね。
(この記事はコピーしたものである)