おはようございます。のいです。

 

今回は1月にお会いした中高時代の恩師、竹中良行先生からいただいたもう1冊の感想です。

 

竹中良行先生 著 「お寺で理科する お仏壇で理科する

 

 

竹中先生が法事でご縁のあるお寺にて、仏事を科学的な視点から解説したことがあり、その内容をまとめたのが本書とのことです。

 

さて、お経では大きなものや小さなものを様々な表現で表しています。

 

小さなものについては、2023年のノーベル物理学賞が「アト秒物理学の基礎構築」に貢献した方に贈られました。1アト秒=10の18乗分の1秒だとか!ひえー!

 

では大きなものは?太陽とか星の数とかいろいろありますが、私のこころに残っており、本書でも紹介されているのが伊能忠敬のお話です。

※香取市HP > 伊能忠敬記念館 > 伊能忠敬とは より引用

伊能忠敬とは:香取市ホームページ (katori.lg.jp)

 

日本史で「日本地図を作った人」と習った方もいることでしょう。

 

忠敬は上総国(現在の千葉県)で名主の家に生まれ、17歳で造り酒屋に婿入りします。

 

婿入りした酒屋は経営難、そこで忠敬は質素倹約のほか、薪の卸売や米の取引で富を築き、10年ほどで経営を立て直します。そして忠敬49歳のとき、息子に家業を譲って隠居します。

 

忠敬の凄いところはここからです。江戸時代の平均寿命が40歳前後ですから、既に十分長生きです。しかし忠敬は一念発起、独学で暦学を学び、50歳のとき江戸に出て幕府天文方で31歳の高橋至時(よしとき)に弟子入りしたのです。

 

さらに莫大なお金を投じて自宅を天体観測所に改装し、金星の子午線経過の観測など日本初の成果を挙げます。

 

ここで忠敬は考えます。

「海外の書物で地球が丸いことは知られているが大きさが諸説ある」

「遠く離れた2地点で北極星の方角と高度を測り、照らし合わせればわかるのでは」

 

そして皆さんご存知のように至時と忠敬は幕府に働きかけ、日本全国を歩き回って測量し、精密な日本地図を日本で初めて作成したのです。忠敬が歩いた距離は54歳から71歳までの17年間に約4万km、地球1周分に相当します。

 

そのため忠敬は「地球1周分を歩いた男」とも呼ばれますね。

 

なおこの日本地図「大日本沿海輿地全図」が完成したのは1821年、惜しいことに至時は1804年に39歳で、忠敬は1818年に73歳で病没していました。

 

この測量から得たデータから算出された地球1周は39869km、実際は約4万kmですから誤差1000分の1という素晴らしい精度でした。

 

※緑色が現在の日本地図、赤色が至時・忠敬たちの作った地図(伊能図)。

 

 

前回のブログでも書きましたが、理科の目的は実験や観察をとおして自分なりの考えを組み立てることです。

 

忠敬たちも測量の方法を試行錯誤したようです。

 

基本的には、棒を持った2人の間にぴんと縄を張り、縄の長さで距離を、双方の棒の上下関係から傾きを測っていました。ただこれは大変な苦労であるため、歯車を利用した「量程車」というコロコロ引っ張れば距離を測れる道具も試作したようです。しかし砂利道やぬかるみではうまく測れなかったため、元の棒と縄での計測に戻したというエピソードがあります。

 

忠敬たちはともすると何億回と試行錯誤したのでしょう。そしてコンピュータや電卓もない時代に莫大なデータを地道に集め、現在と遜色ない結果にたどり着きました。

 

しんどかったろうと思います。

 

苦しかったろうと思います。

 

それでも忠敬たちが日本地図という自分なりの考えにたどり着いたとき、組みあがったとき、どんなに大喜びしたか、愉快だったか、これもまた想像に難くありません。おそらくは雲の上で師弟一緒に完成を喜び合い、GPS衛星なんて最近の文明の利器に興味津々だと思います。

 

 

私はこのお話をもとにした竹中先生お手製のプリントを見ながら

「人生は長い。みんなもあとに続け」

と言われたのを昨日のことのように覚えています。

 

私の目下の目標は、次世代エネルギーとして注目を集める核融合発電の研究経過を見るために、実験施設や原子力科学研究所施設を見学し知見を得ることです。

 

セキュリティ上審査が厳格なようですが、未来の技術、最先端の技術です。科学屋としては垂涎もの、一度お目にかかりたく、いろいろ調べているところです。

 

いつまでも観察と実験と仮説の構築を続けたい!やっぱり理科は面白い!そう思った1冊です。

 

今回もここまでお読みいただきありがとうございました。