知覚は幻想?!~「色」と「音」とそして「言葉」 | ヒーラーが「病気」を体験する羽目になったら

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「病気」を体験することになったヒーラーが、自分をヒーリングして幸せになっていった体験の記録。

NHKの「地球ドラマチック」で、「“色”は脳で作られる! ~あなたと私は同じ色を見ているの?~」というタイトルの番組があったので、さっそくチェック。元はBBC放送。この番組はとても面白かった。


始め、この番組はある「勘違いから生まれた実験」の話からスタートします。

「イタリアで優勝したサッカーチームのユニフォームは、赤が使われることが多いが、赤と勝率には、何か関係があるのかもしれない!」という、予想の元に実験が開始されます。日本でも、戦国の昔に赤い甲冑で統一された武士団を「赤備え隊」と呼び、「最強の精鋭部隊」のイメージがあります。「武田の赤備え」、「井伊の赤備え」、「真田の赤備え」などが有名です。「確かに、そんな関連があるかもしれない!」と、思わせる内容なのですが、実験結果は意外な方向に結論を導き出します。

【赤は勝敗を左右する?】

実験方法:テコンドウの試合で、赤と青のユニフォームで試合。→デジタル合成で赤と青を入れ替える→審判にデジタル処理前と後の映像を見てもらい勝敗を判断してもらう

赤ユニフォーム・・・実際には負けた試合でも審判は「勝ち」と判断

青ユニフォーム・・・実際には勝った試合でも審判は「負け」と判断

→やはり「赤」は勝率を上げるのだろうか?!


実験方法:赤と青のユニフォームを着てサッカーのPK戦をやる。その勝率を観察→赤の勝率が高くなる。

テストステロン(自分を優位に感じる快楽物質)とコルチゾール(ストレスを感じると分泌)を測定。

結果:テストステロンに差は無し。原因はコルチゾール(ストレス物質。過剰に分泌されると脳の海馬にダメージを与える。)の分泌量。

赤ユニフォーム・・・コルチゾールはあまり出ない

           →緊張が少ないのでのびのびプレー

青ユニフォーム・・・コルチゾールの分泌を促す

           →緊張が体を委縮させる

→だから、「青」が勝率を下げたと、考えた方がつじつまが合う。


色は時間と関係している

実験方法:赤と青の部屋に入ってもらい、体内時計で1分を判断してもらう

予想:赤は興奮状態を促すので、時間を正確に判断できないだろう。逆に青は冷静さをもたらすので時間を正確に判断できるはず。

結果:以下のとおり

青・・・時間を正確に判断できない。11秒短く認識する。
赤・・・時間を正確に判断できる。

→「青」が時間の感覚を狂わせるみたいだ。



色は活気を生み出す

青は食欲を減退させると考えられてきたので、通常のレストランでは赤や黄色の照明が使われる。

実験:「青は人の肌をきれいに見せる効果がある」と主張したデザイナーがレストランで青の照明を使う

結果:夜になって青の照明が目立ちだすとレストランに活気が生まれ、商売大繁盛

→理由は分からないが、「青」はどうやら人の活気を生み出すらしい


■これらの実験結果から→あれ?!「青」って人間にとって「特別な意味」があるのでは?という疑問が浮かび上がる。


【こんな学説がある】

初め、生物は以下の2種類の色しか見分けられなかった。それは、単細胞生物だったころに備わった性質。紫外線(危険)とその他の太陽光線(エネルギー源)を見分ける事から発達した能力。

青・・・紫外線が多量に放射される昼間の色→危険!

黄・・・紫外線がやわらぐ夕暮れの色→安全!


→「青」を感知すると海底に逃げ、「黄色」を感知すると海面に上がってきてエネルギー充填する。


実は色は感知出来ないが、明るさを感知する細胞が存在する。その細胞は「青」の量によって明るさを判断している。つまり「青」が多いと「明るい」、少ないと「暗い」。

先ほどのレストランのエピソードはこう考えられるかもしれない。通常、夜になると「青」の量は減る。だから、この細胞は暗くなったと感じる。しかし、青い照明のレストランでは、昼間同様「青」がある。だから、この細胞は明るいと感じる。それが、活気に繋がっているのではないか。「青」=「危険」という単純な情報ではなく、「紫外線が多いから危険だが、明るいので他の生物も活気がある。自分も捕食されないように、アクティブデいること!」という、複雑な情報を送っているのかもしれない。


話を戻して、色の知覚の進化の話。今まで、「青」と「黄色」しか見分けられなかった生物は、霊長類になると「赤」と「緑」の2種の色を見分けられるようになる。→霊長類が発展するキッカケとなる。

赤・・・木の実

緑・・・葉

→木の実を見分けられるようになり、栄養摂取に有利になる。視覚による情報が豊かになる。


実験:ある種のサルは先天的な色覚異常があって、「赤」を見分けることが出来ない。→色覚異常を直す→初めて見る「赤」を判断できるのか?

結果:判断できる

→初めて見る色でも経験によってそれを判断できるようになる。


実験:色見本と果物を配置。それに色のついた照明を当てる。その状況で被験者に、個々の色を当ててもらう。

結果:例えば黄色の場合。色見本の色は全く別の色に見えるが、バナナの黄色は正確に判断できる。

→視覚でとらえられた「色」には、今までの「経験」によって作られた色の「補正」がかかる。色は脳が判断している。


■結論:人は「色」に「意味」を持たせている。それは、「経験」が作り出している→どうやら「色」は絶対的な感覚ではなく、あとから「学習」される機能らしい。だから、「青」=「危険信号」とも限らない。


実験:アフリカのある種族には色に関する言葉が5パターンしかない(古代ヨーロッパでも同じだったらしい)。この部族の言語マップは独特で、水も乳も青空も「白」と表現する。その部族に1色だけ違った色が入った色パターンを見せ、色の違うものを当ててもらう。

結果:以下のとおり

「緑」・・・「緑」と「ほんのり黄身がかった緑」をこの部族では別の言葉で表現する

    →非常に微妙な色の違いを瞬時に見分けることができる

「青」と「緑」・・・「青」と「緑」をこの部族では同じ言葉で表現する

        →「青」と「緑」の違いが見分けられない。


■結論:「色」は「言語」と密接な結びつきがある。「色の知覚」は「言語」の影響を受ける。


実験:色々な国籍、民族の人々に、色パターンを自由に作ってもらう

結果:色配置にある一定のパターンがあることが分かる→それは、その人が普段よく見る自然の「色パターン」である


実験:「色」をランダムに配置し、それに「言葉」を当てはめてもらう

結果:「年齢」、「職業」、「地位」によって、色に与える意味に、それぞれ共通点が見られた


■結論:あなたとわたしが見ている色は違う。何故なら、あなたとわたしとは「経験」が違うし「言語マップ」が、違うから。


「『色』は、絶対的なものがあるわけではない。それは、脳が作り出しているイメージで、あなたとわたしは同じ色を見ているわけではない。それは、経験や言葉によって変化する世界なのだ。」という内容の番組でした。


「奇跡のコース」では「知覚は幻想である」というのが、大きなテーマとして出てきますが、それを思い出します。


知覚には絶対的なものって無いのかもしれません。


実は、「音楽」にも同じような話があります。「音」の高さや速さには絶対的な基準があるわけではないそうで、その時代の人々にフィットした音の高さ(ピッチ)や速さ(テンポ)があります。ですので、最近のベートーヴェンの交響曲はその研究成果を反映させて、当時の音を再現するために、今までよりも低い(ピッチ)と、速い(テンポ)で演奏されるのが最近の流行です。因みに、「メトロノーム」は、「あたかもテンポを絶対的なものの様に見せかける」という意味で、画期的な発明です。時計と同じで、幻想を強めることになった「幻想2大発明」ですね。


ウィンナーワルツの3拍子は通常の三拍子の様に「タンタンタン」と均等ではなく、「タンンタンタン」と、最初の1拍目に重心を置くのだそうで、これがウィーン生まれの指揮者とそれ以外の指揮者では差が出るんだとか。ワルツはダンス音楽です。2本足の人間が3拍子で踊るんですから、ステップが均一にならないのは何となく理解できます。が、それは頭の中での想像のお話。ダンスの文化がある人々にはこのリズムは身体感覚備わっているのでしょう。

ウィーンの人々には、こういった違いは一発で分かるそうですが、日本人のわたくしにはさっぱりです。だいたい、ダンスなんて小学校のフォークダンスくらいしか経験がありませぬ。


フィンランド人である作曲家のシベリウスは「フィンランディア」という交響詩の中で、「故国への愛を思わせる懐かしい感じ」を表現するのに、飛び跳ねる様な音型を使っています。フィンランドの言葉には跳ねる音が多いらしく、それを入れることでフィンランド語のリズムを再現ているのです。そうする事で、聴衆は「故郷の美しい自然や愛すべき人々」を思い出し、目頭を熱くさせる効果があるんだとか。日本人の僕には、想像はできても腹の底からの理解というのはできない感覚です。確かに、フィンランド人の名前はF1の「ミカ・ハッキネン」とかムーミンの生みの親「トーペ&ヤッセ・ヤンソン」とか、跳ねる音が多いみたいですね。


「色と言葉」、「音と言葉」には、意外な関係があるんですね。


新約聖書のヨハネによる福音の冒頭が、「始めに言葉ありき」で、始まっているのは、何か深い意味がるのかも知れません。それから、旧約聖書の「創世記」で、はじめ一つの言葉を使い一致団結してバベルの塔を作った人々が、異なる言葉を使うようになり、分離していく様子が描かれているのも、思い出されます。


「分離と言葉」にも何か繋がりがあるのかもしれません。