エンデ この宇宙には、人間以外にいろいろな叡知存在が実在しています。現代のいわゆる啓蒙された意識を持つ人間にとって、このことは実は非常に重大です。新しい方法によって、目に見える存在だけでなく、見えない諸々の存在をはっきり認識することは現代の知的人間たちには絶対に必要なことです。


 安 野 私が言った悪魔とは違いますが、悪魔にもいろいろあるでしょうからね。

 エンデ 私のは擬人化された悪魔、たとえ話としての悪魔ではありません。

 安 野 人間がこしらえた悪魔と、初めからいる悪魔とに分けましょう。

 エンデ いいえ、分けられません。本当に実在しているいろいろな叡知存在やその他の存在、それは人間の五感ではとても知覚できないし、それが善なる存在か、悪なる存在かを見分けることもむずかしい。目に見えて知覚できる自然界のほうも非常に複雑で、とても説明しつくせないものですけれども、もう一方、目に見えないほうの世界についても、それはそれは複雑多様で説明できません。

  ただ人間は、見えない存在があることを知るにせよ知らないにせよ、見えない存在たちとしっかりかかわりながら生きている事実があります。こんなふうに申し上げる私の世界観を、魔術的世界観というふうにご覧になりたければ、それでも結構です。すべてが知的に説明できることを前提にした現代一般の世界観とは、私は絶対に相容れない立場を取っています。


 安 野 では言いますけれども(笑)、悪魔というのは、人間にとっては悪いやつですね?


 エンデ 人間が人間であろうとするのを妨げている存在です。


 安 野 困った存在です。できれば、いないほうがいいでしょう?


 エンデ いや、むしろ必要な存在です。


 安 野 何のために?


 エンデ 抽象的にならないように、一つ例をあげてみましょう。嘘というものがもし存在しないとしたら、真理とは何かという意識を私たちは持ちえないでしょう。私たち自身が何者であるかが分かるためには、つねにわれわれを人間であることから妨げる存在と闘う必要があります。その意味では悪魔は必要な存在なんですが、これで答えになったかどうか……。


 安 野 私の考えているのと非常に近いですね。もっと漫画的に言いますと、神様に一番役に立っているのは悪魔だと思います。なぜかと言うと、神様がありがたいのは、悪魔がいるからです。つまり、悪魔は、われわれ人間を、神を信じるように、神のもとへ追い立てています。だから悪魔は一番神様のためになっています。悪魔がいなかったら、おそらく教会へ行く人もいなくなるでしょう。
 エンデ いま、一番微妙な神学の問題に触れていらっしやいますね。(笑)神が善い存在だとする。しかし悪魔も神によって造られたはずだ。ではどうして神は悪魔までも造ったのか、という問い。これは教会史始まって以来、続いています。そして論理的に帰結すれば、神は善くない存在だということになってしまいます。


 安 野 昔のキリスト教の論争ですね。


 エンデ だけど、私たちが善とか悪とか言っているのは、純粋に人間側のモラルの問題ですね。ところが神は、いま私たちが考えているような善悪のモラルに基づいて世界を造ったわけではない。モラルが世界を造るなんてありえない。サソリとか虎は悪ではありません。けれども獲物を食べます。
 西洋思考の持つ根本的な誤りは、善と悪とをモラルとして二極対立させてしまったところにあります。だから、神を光で表し、悪魔を闇で表すのは奇妙な二分化癖です。なぜ闇も光と同じように神聖なものではありえないんでしょうか。光と闇と両方がなければ色彩が生じえない。光だけで成り立つ世界というのは、闇だけで成り立つ世界と同じように、何も見えない、知覚できない世界ですよ。


三つの鏡 ミヒャイル・エンデとの対話

井上ひさし/安野光雅/河合隼雄  朝日新聞社



「海を越えて向こうの陸地からここへやってきたあなたがたの先祖たちの中に、地獄だとか悪魔だとか作り事をでっちあげたものたちがいたのだ。

彼らが来る以前には、そのようなものは存在しなかった。

だが、彼らはそれをでっちあげてしまった。

なにかがあると信じてそれを信じ続けていれば、それは実在化するものだ。

そこで連中はああしたものをこさえ、わざわざそいつを持って、ここに渡って来た。

けれでも、われわれインディアンは、そんなものをこれぽっちも必要とは、していない。

そうしたものを我々は、偽者の教えと呼んできた。

偽者の教えは、我々に恐怖を教え、罰せられることを恐れるようにしてしまう。

かくして人間は、怖れと不安とともに成長した挙句に、気がつくと精神分析医にかかっている自分を発見するような羽目になるのだ。」


「ローリングサンダー」ダグボイド著


というような文章を読みつつ僕が思うのは、日本の怨霊信仰だ。

靖国神社は、勝てば官軍の言葉通りに明治政府に従った忠義を尽くし戦死した軍人を祭る。

しかし、江戸城=皇居より見て鬼門に当たる寛永寺のある上野公園に官に逆らった西郷どんの銅像は聳え立つ・・・その先には、東照宮がある。


東照宮は、無念のうちに死んだ武士の怨霊を封じ込めたという説がある。

平家の怨霊の代表格である将門の塚、東京都千代田区大手町一丁目一番一号.神田大明神となる。

不遇な生を終えた菅原道真公は、怨霊と化し天神様となる。


こういった日本人の基層にある考えからすれば、連合国が勝手にA級だの戦犯だのと決めつけた人物を靖国に合祀するのは、さほど不思議ではないのだと思う。


その根底には恨みを昇華する和の文化があるかと思う。


その起源は、スサノオやヤマトタケルまで遡れる。


記紀神話に見られるアマテラスとスサノオの対立。

これを両方祀るという日本のような文化は、不思議だと思う。

日本文化の基層には、外来、帰化の人々と先住民の融合があると思う。


現代でいうところの共生文化だと思う。

遺伝子的に見ると、日本、チベット、アメリカ先住民の遺伝子は、一緒な部分が多い。

もちろん、アイヌや半島、大陸の遺伝子とも重なるのだが・・・・

未だ解明されていない日本文化の根っ子その根源に何があるのだろうか?

僕は、こういったこの国の文化の根幹にまだまだ希望があると思う。

鉄砲が伝われば、瞬く間に国中で生産し西洋人を仰天させ、しかもこれを封印し、江戸幕府を開き、世界最先端のリサイクル社会を営む。

明治以降もアジアで唯一独立を果たすという離れ業をやってのける。

ホピ族が平和の民と呼ばれ。

わが国が自らを和の国と呼び。

こういった符合の奥にある何事かに心惹かれることが多いんであります。

日本人の魂の底にある何事かに・・・・


(-∧-)合掌・・・