ヒュー・ブロディというユダヤ系の英国人の人類学者が著書「『エデンの彼方』池央耿訳」という書物で、アラスカに住む狩猟採集民のイヌイットについて、次のように書いています。  

「彼らは、人間として賞賛に値する特性を、ふんだんに発揮する。  親切、寛容、思い遣り、情愛、誠実、もてなし心、同情、慈悲、等々。  (中略)  狩人にとって、こうした特性は、美徳というより、むしろ、生きるための必要条件である。これがなければ、狩猟採集社会は崩壊する。」


「狩猟採集民の秩序は今いるところがすでにしてエデンの園であるという確信の上に成り立っている。」


「狩猟採集民の天分は、進んで他人から学び、人のために働くのを厭わないことばかりではない。何よりも彼らの文化を特徴づけているのは、資源とその利用の均衡、すなわち、直観と詳細な知識から結論を引き出し、敬愛に結ばれた人間関係に身を委ねることである。」


「狩猟採集民の神話伝説には、善と悪、真面目と冗談を画する一線がない」


「狩猟採集民の生き方で注目すべきは、個人の意思を大いに尊重することである。どの集団にも、指導者というよりは技量において崇敬を集める狩りの名人がいる。しかし、その指示や助言に従うかどうかは、あくまでも個人の選択である。狩りの先達は命令を強要しない。自分の意志は明らかにするが、それにどう対応するかは個々の判断に任される。社会的な倫理規範は厳格ながら、上意下逹や集団による制裁によってこれを強制する考えはない。人間の行為が霊界におよぼす影響は、祟りに対する恐れを伴って理解されている。動物を正当に敬わず、禁忌をないがしろにすれば、報いは飢えと病であり、そのことは部族の神話伝説に語られているし、現実に厄災に見舞われた場合、長老やシャーマンもこの考えに立って現状を分析し、対応を検討する。狩猟採集民の社会にあって、個人と霊界の結びつきは何にもまして重要であり、その媒介は夢や、瞑想、直観、とさまざまだが、選択の自由は各人にあって、社会的階層、序列に制約されることはない」


この書物の翻訳者の池央耿は、こんなことを言っている。

「農耕民族が狩猟採集民を辺境に追いやっていく過程で狩猟採集民は言葉を失ってしまう」


「深い考えを持っていたことが明らかになっている狩猟採集民たちは、自分たち固有の言葉を失ったことで、ある大切なことを、もう表現できなくなってしまいました。」


星川淳は、かつてこんなことを言っていた。

「日本人が考えるような自然は本当の自然ではない。どんな山もほとんど2000年にわたって人の手が入り続けている『里』なのだ。圧倒的なアメリカの原野などとは比べられない」と・・・・


ユダヤ人である人類学者ヒュー・ブロディが残した言葉として「イヌイットの子供たちは流離の呪いを負って育ちはしない」・・・・・・・この著者自身の深い憂いと想いが聖書の民ユダヤ人として「エデンの彼方」というタイトルをつけさせたのだろうなあと思う。

ヒュー・ブロディの主張の要約を幾つか挙げてみよう。

エデンの園の住民である狩猟採集民こそが定着民であって農耕民は移動民である。

狩猟採集民は、自然の大地の恵みを受けるために生活の場に生きる動植物に関する豊潤な知識なくしては生きられず、生活の場である環境を知り尽くす必要がある故に移動できないという。

農耕民は、環境に対して大きく手を加えるので、その結果として、新しい生活域に進出することが可能であるという。

殊に焼け畑農業などはそうだろう。

ヒュー・ブロディは、農業革命以降、農地が急速に拡大していったこと、産業革命以後にヨーロッパによる新世界への進出もまた、農耕民は移動民であるという説を唱える。


わが国のアイヌ民族の歴史を調べていくと日本人のむごたらしさに愕然とする。

ほぼ似たような残酷な行為がこの2千年間にわたり世界中で行われ続ける。

アメリカ大陸の伝統的な先住民は、自分たちを大地の守護神という。

日本で言えば、国津神、産土の神なんて言葉を思い起こす。

大地という生態系を知り尽くし糧を得、すべての命に感謝し祈りを捧げつつ命と共に生きる伝統。

この伝統がありとあらゆる人種や民族の根っ子にはあるかと思う。

麦と米の栽培という発見が、長らく続いた人類の伝統を覆したのだと思う。

種を撒き作物を得る。

収穫できなくなれば土地を移動する。

森や草地を焼き払い移動を重ねる農業から土地に養分を与える肥料の発見などの農業技術が進歩するなかで富の蓄積や階級性や奴隷制度などが誕生したのだと思う。


大地に根ざした神が移動する神から観念の神、形而上学の神である一神教の起源は、こういった歴史の中にあるのだろうかと思う。

世界中の先住民が土地や文化や伝統や言葉を奪われることで失うのは、言霊の力だと思う。

しかし、全てが滅び去ったわけではないかとも思う。

闇が深くなるほどに光の力も増してくる。

究極のところで闇は光に絶対勝てないのだ。

だとしたら闇の役割とは、光が増し加わるためなのかもしれない。


それは、畢竟、放射能や化学物質に汚染されたエデンの彼方に住む我々が再びエデンの園に戻るということなのかも知れない。

我々日本人が失った祝詞の言霊の源流のひとつ。

「とほかみえみため」

という言葉がある。

この言霊を唱えつつ。

その意味するところは、なんだろうか?

神に感謝を捧げ

神に何を語り

神の言葉を聞き

日本人の魂の変遷や日本のエデンである高天原について考えてしまうのだ。


そして

そして


「とほかみえみため」の意味を僕はローリングサンダーの以下の言葉に近い意味なのだろうな・・・・

などと思うのであります。


「偉大なる精霊グレイトスピリットは、すべてのものの生命の中に、ありとあらゆる生き物、植物、そして岩や鉱物の中にまでも、それは宿る。すべてのものというのは、本当にすべてのもののことを言っているのだが、すべてのものは、自分の意志を持ち、自分のやり方を持ち、自分の目的というものを持っている。尊敬を払わなくてはならないのは、まさにこの点にあるのだ。この尊敬というのは、単なる気持ちや態度だけのものなどではない。それはひとつの生き方である。自分自身や自分の周囲の環境に対する責任を常に自覚して、その義務を怠ることなく実行に移し続けていくことを意味しているのだ。」

「ローリング・サンダー」ダグ・ボイド著北山耕平・谷山大樹訳


(-∧-)合掌・・・全ては、ひとつ。All is one!!