故人の霊を呼び寄せて言葉を伝えるイタコの「口寄せ」に、自殺者の遺族(自死遺族)が癒やされるケースが多いことに注目し、その理由を探る文部科学省の補助金助成研究が、今月末からスタートする。


 自殺者が12年連続で3万人を超える中、新たな遺族支援のあり方を提案したい考えだ。

 研究は、青森県立保健大健康科学部の藤井博英教授らが実施。調査は3年間で、今年度は、県内のイタコを訪れる自死遺族5人に協力を求め、口寄せを受ける理由や受けた直後の気持ちの変化、話の内容や口調などイタコのどこに癒やされたか――などを聞く。

 藤井教授によると、口寄せを受ける自死遺族には、他の遺族とは異なる苦しみがある。自ら命を絶った理由を故人本人から聞けず、自殺を防げなかった自分を責め続けてしまう。

 こうした苦しみは、話を聴いてくれるだけの通常のカウンセリングでは解決できないことも多い。

 このような遺族に、イタコが呼び寄せた「故人」は決して恨み言を言わず、「世話になって本当に感謝している」などとお礼の気持ちを伝える。さらに「私のために毎朝線香を1本あげてください」など、簡単にできるお願いをする。

 すると、「遺族の自責の念が和らぎ、故人と再び対等に向き合えるようになり、立ち直るきっかけになる」(藤井教授)という。

 来年度以降は調査対象者を増やし、病死遺族への効果とも比較する。最終的には、イタコの話す内容や口調、場の雰囲気などの中から、カウンセリングや遺族同士のケアに生かせる部分を提案する。藤井教授は「自死遺族の支援は不十分で、後追い自殺をする遺族もいる。非科学的とされる民間信仰を科学的に検証し、遺族支援に役立てたい」と話している。

 ◇イタコ=東北地方に古くから存在する巫女(みこ)で、死者の霊魂を呼び寄せて自分に乗り移らせ、その言葉を語るとされる。青森県むつ市の恐山が有名。「津軽のイタコの習俗」は国の無形民俗文化財。

(2010年8月14日14時38分 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100814-OYT1T00396.htm


 戦前は日本の統治下にあり、太平洋戦争の激戦地となったパラオ共和国。

 ここで命を落とした多くの戦友を弔うため、「墓守」として同国へ移住した倉田洋二さん(83)が今夏、地権者の事情で立ち退きを迫られていた慰霊碑21基の移転を無事に終えた。「玉砕戦」後も生き延びた倉田さんは「慰霊碑を残していくのは生き残った者の務め。これで戦友が安らかに眠れる」と安堵(あんど)している。

 倉田さんが東京都内の学校を中退し、日本の委任統治領だったパラオに親類を頼って移住したのは1941年。現地の水産講習所に通い、貝などの養殖を学んだ。水産試験場で働き始めたが、44年に旧日本軍から召集を受けた。ほどなく米兵約2万人がパラオのアンガウル島に上陸。同島の日本軍は1000人余で食糧、弾薬とも乏しく、生き抜いたのは数十人だったという。

 倉田さんは左手足の重傷で最後の攻撃に参加できず、生き残った。後ろめたさに苦しみながらも「生き延びて友軍ともう一度戦おう」とジャングルを転々とした。ヘビやネズミを食べて飢えをしのぎ、いかだで脱出も試みたが、海流に阻まれ断念。困窮の末、食糧を求めて米軍キャンプに忍び込み、見つかって捕虜となった。

 復員後、東京都に採用され、都水産試験場などに勤務した。戦後、倉田さんが初めてアンガウル島を訪れたのは75年頃。生き残った負い目から、長く足を踏み入れられなかった。夕闇の中、慰霊碑の上を、ホタルがふわふわ飛んでいるのを見た時、「戦友が自分を待っていたように感じた」。その後も何度か通ううち、国が建てた慰霊碑に加え、生き残った戦友や遺族らが建てる小さな慰霊碑が増えるのを見て、「近くで守りたい」との思いを強めた。

 同国の中心・コロール島に移住したのは都を退職後の96年。2度目の移住を決意したのは、妻に先立たれたこともあったが、「墓守」が大きな理由だ。ライフワークのウミガメの研究をしながら静かに暮らし、船で約4時間かかるアンガウル島に年4回ほど訪れて碑に手を合わせる。碑は大小21基に増えたが、放っておくとジャングルに埋もれてしまうため、掃除が欠かせない。

 2008年、地権者からホテル建設を理由に移転を求められた。倉田さんは「永久に供養できる場所を」と地元の州などに掛け合い、島の海辺にある国有地を確保。日本に帰って移転費の寄付を募ると、目標を上回る金額が集まり、「多くの人が追悼の思いを持ち続けている」と感激した。

 今は碑を移しただけだが、いずれは住民に親しまれる公園にしたい。「ずっと碑を守り続けることはできない。管理の方法も考えなければ」。倉田さんは危機感も感じている。

 ◇パラオ共和国=南北約640キロにわたり、200以上の島からなるが、人が住んでいるのは9島。面積は計488平方キロ・メートルで屋久島とほぼ同じ。人口約2万人。1920年から日本が委任統治し、第2次大戦後は米国が信託統治を実施。94年に独立した。アンガウル島は約8平方キロ・メートル。

(2010年8月14日14時45分 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100814-OYT1T00407.htm


横浜市鶴見区の小早川規子さん(77)は今夏、父親の藤三郎さんが戦死した南太平洋の島を訪れ、慰霊した。「父からは軍事郵便が届いたのに、私らが出した手紙が届かなかった」と無念の思いを語る。

 「父は無事にて前線の守りをかためて居(お)ります。規子ちゃんは一日も早く病気を治して学校へ行かれます様に南十字星の下から望んで居ります。弟妹達と仲よく暮す様に」

 出征間もない1943年10月、藤三郎さんから届いたはがきを小早川さんは今も大事に持っている。別れの時寝込んでいた10歳の長女を気遣った文面だ。「軍事郵便」「検閲済」の判が戦時を物語る。

 藤三郎さんは1945年2月、パプアニューギニアのブーゲンビル島で戦病死。38歳だった。4人の子どもを育てた母親も7年前、95歳で亡くなった。

 小早川さんは6月末、妹2人を誘い、8日間のパプアニューギニア慰霊ツアーに参加した。ラバウルの慰霊碑の前で父母と兄弟、孫の名前を書いた半紙を掲げて祈った。姉妹は海に向け「お父さーん」と叫んだ。

 「その昔 父の手紙に書きしあり 南十字星を尋(と)めゆきし旅」。小早川さんは「元兵士から『日本からの手紙は、輸送船が沈められ届かなかった』と聞いた。『お母さんに内緒で甘いものを送って』という父の手紙に私らが返事を書いたのも、読んでもらえなかった」と振り返る。

 15日の終戦記念日を前に、小早川さんは「8月は重い月。孫たちに体験を語り続けたい」と語った。【網谷利一郎】


http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20100814ddlk14040264000c.html


JR京橋駅南口で14日、第56回京橋駅空襲被災者慰霊祭が行われ250人が参列した。終戦の1日前に起きた大阪空襲は京橋駅に直撃し、その犠牲者は500人とも600人とも言われている。

慰霊祭は午前11時、JR京橋駅・柳生頼成駅長の「戦争の悲惨さを戦争を知らない世代へ伝え、平和な世の中を築くことが私たちのつとめ」というあいさつから始まった。


慰霊祭は午前11時、JR京橋駅・柳生頼成駅長の「戦争の悲惨さを戦争を知らない世代へ伝え、平和な世の中を築くことが私たちのつとめ」というあいさつから始まった。

続いて65年前の空襲時に京橋駅にいた同慰霊祭世話人会会長の京極俊明さん(79)が当時の体験を語った。
正午をまわった12時30分、空襲警報が鳴り響く京橋駅のホーム。人々は環状線の高架下にあたる片町線(現東西線)のホームに逃げ込もうと階段付近に殺到していた。その時14歳だった京極さんもその後に続こうとしたが、「ここにいないで離れろ」と数人の大人に促された。周りは地味な服装の人ばかり。カラフルな服を着ていた京極さんが動き回っていることで空襲の標的にされてしまう。それを避けるため、群衆から遠ざけられようとしたのだという。京極さんは薄情に感じながらも恐る恐る北口から駅の外に出た。その瞬間に数個の1トン爆弾が駅のホームを直撃したのだ。京橋駅は一瞬で焦土と化した。瓦礫(がれき)の山に埋まる死体、幼子を抱きかかえるようにして無言の死を遂げた母子、飛び散る手足や肉片、断末魔の叫びが飛び交う生き地獄となったという。

「もしもあの時、あの人たちが私を遠ざけなければ今の私は存在しない。以来、自分に降りかかる理不尽なことも前向きに受け止めるようになった」と、京極さんは言葉をかみしめるように語った。


http://kyobashi.keizai.biz/headline/808/


 乗員・乗客520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から25年を迎えた12日夕、群馬県上野村の追悼施設「慰霊の園」で慰霊式が行われた。参列した遺族や地元住民ら約300人は、四半世紀を経てもなお色あせない「御巣鷹」の記憶を胸に、改めて故人の冥福を祈った。

 午後6時に始まった式には前原誠司・国土交通相のほか、再建中の日本航空から稲盛和夫会長、大西賢社長らが出席。同相は「突然の事故で旅立たれた無念の思いと、最愛の肉親を失ったご遺族の悲しみに思いをいたす時、痛惜の念を禁じ得ない」と式辞。「事故を風化させず、二度と起こさないという決意で公共交通の安全対策に取り組む」と言葉に力を込めた。

 施設中央にある慰霊塔の周りには、犠牲者数と同じ520本のろうそくを用意。遺族らは献花台に白菊を手向けた後、ろうそく1本ずつに灯をともし、墜落時刻と同じ午後6時56分に1分間の黙とうをささげた。

 墜落事故で夫、雅男さん(当時45)を亡くした大阪府内に住む吉備素子さん(67)は「25年が過ぎても悲しみは変わらない。国も日航も事故を風化させない取り組みを続けてほしい」と話した。

 前原国交相は、これに先立つ同日午後、墜落現場となった「御巣鷹の尾根」に担当大臣として初めて慰霊登山した。午後3時前、墜落地点そばに建つ「昇魂之碑」に花を手向けた同相は、集まった報道陣に「520人の死を無駄にせず、安全な交通行政に努める」と述べた。

 再建中の日航については「安全なくして日航の再建はないことは申し上げているし、大前提だ」と強調した。


http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E3E0E2E6E48DE3E0E2EAE0E2E3E29180EAE2E2E2;at=DGXZZO0195583008122009000000


戦没者を慰霊し、平和への祈りをささげる「みたま祭」が13日、滋賀県彦根市尾末町の県護国神社で始まった。5千個のちょうちんが境内につるされ、遺族らが手を合わせた。


http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20100814000038


口蹄疫(こうていえき)に絡み、町内のすべての牛や豚など計約1万8千頭が殺処分された新富町が12日、同町新田の町営牧場で、合同慰霊式を開いた。約350人が参列し、建立された畜魂碑に向けて献花しながら、家畜の冥福を祈った。


 碑は御影石製で高さ約2メートル。「畜魂 やすらかに」と刻まれている。土屋良文町長は碑の前に立ち、「未曽有の大災害を風化させてはいけない。この日が再生のスタートの日として記憶されることを願います」と呼びかけた。


http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000001008120004


こういった記事を眺めると日本人の心の深層にある霊的な感性が少しずつ表層に現れて来ているなあ・・・・

と思うのであります。


生きるものと死んだものが共生していた時代が再びやってくるのかもしれないなあ・・・・

などとも思います。

生きること。

死ぬこと。

その根源に何があるのだろうか?

ひょっとしたら同じコインの裏表じゃないのだろうか?

というようなことが科学的に解明される日もそのうちやってくるのでしょうし・・・・


( ー人ー)|||~~~ ・・・合掌・・・