昨日は武藤議員の記者会見があり、今日は武藤議員叩きの新たなネタが週刊文春から発売されます。
一の矢、二の矢、三の矢状態ですが、実は矢は無限です。

こうした報道に触れる時、私達生粋の日本人は武藤議員を気の毒に感じますから、当然に支持者が増えます。
そこを計算できないところが半島遺伝子による思考の薄弱さです。
ですが、今回触れたいのは武藤議員の事ではなく、世間一般の常識についてです。

今回の武藤議員の1件は、多少の語弊があるとは思いますが、皆さんにとって他人事のハズです。
明日は我が身とは多分、思っておられないと推測します。

常々チョーセンジン(日本国籍を有する者を含む)と対峙したりお付き合いしている者として申したいのですが、今回の件は武藤議員に限った事ではなく、広く我が国社会に存在している『チョーセンジンによる日本人イジメ』の一例でしかないという事です。
紐解きます。

武藤議員はシールズ(共産党=チョーセンジン)を批判しました。これが今回の事の発端です。
チョーセンジンは、武藤議員による自分達への批判を許さない、そういう事です。

チョーセンジンの楽しみ、快感、快楽とは何か。
それは生粋の日本人が悩み、苦しみ、困り果てる姿を見る事、そして最大の快楽は生粋の日本人の殺害、残酷な殺し方、或いは自殺です。

イジメによる自殺は度々報道されていますが、自殺という結末を勝ち取ったチョーセンジンの快楽は最高です。
ですが、自殺に至らないまでも、生粋の日本人が困る姿、悩む姿、打ちひしがれる姿、それでも十分にチョーセンジンの快楽です。
そういうチョーセンジンが約2000万人も我が国の社会で暮らしている、それが現状です。

私が思うにチョーセンジンから本気で敵視された武藤議員への攻撃は、離党程度で満足するものではなく、離党したとなれば次は議員辞職、もしも議員辞職したなら次は自殺、又は殺害、そう考えるのがチョーセンジンという生き物です。
今日、発売の週刊文春の内容は多くの方から紹介いただきましたが詳細を確認していません。
どうせ嘘だからです。
ですが世間は鵜呑みにし、武藤議員は政治家として窮地に追い込まれます。
そしてこれが最終兵器ではなく、チョーセンジンはこれから先も機関銃の如く武藤議員を撃ち抜いてきます。
支持者の皆さんは日本人的な感覚で一つ一つ対処されるのでしょうが、武藤議員に対するチョーセンジンによる攻撃は武藤議員が死ぬまで止みません。
そのつもりで支持、応援をお願いしたいと思います。

もう一点、報道されている攻撃が全てではありません。
チョーセンジン組織は我が国社会に広く、根深く浸透しており、武藤議員が信頼する身近な者の中にも数多く存在しており、今はそうした身近な者からの裏切りと連続攻撃に晒されている最中のハズです。
武藤議員の支持者、応援者の皆様には、その辺りまで慮って欲しく思います。

チョーセンジンは私達日本人と基本的なところから価値観が全く異なりますし、日本国内で優雅に暮らす為の智恵を幼少の頃より家庭教育されており、いい人として生粋の日本人に近付き、生粋の日本人が信頼する行動を歳月を重ねて積み重ねて信用されるに至り、そして折を見て掌を返す、これが常套手段です。

生粋の日本人なら誰だってチョーセンジンの腹黒さや騙しにやられます。
これを「脇が甘い」とか、「うかつに人を信用する自分の甘さ」と言っては、日本人精神の否定に繋がります。
人付き合いにおいて、相手がチョーセンジンか生粋の日本人か、その分別が最初にあるべきなのです。
その分別を元に、チョーセンジンとは距離をおいた付き合いをすべきであり、信用してはならず、胸襟を開かない事です。
チョーセンジンは「差別」という言葉を使って、生粋の日本人と同様に付き合う事を求めますが、それはチョーセンジンの身勝手です。
そんな詭弁に付き合う必要はありません。

武藤議員だけでなく、今現在チョーセンジンのイジメによって、程度の差はあるものの、精神的苦痛を味わっている人がたくさんおられます。
大津市内、又はその近郊にお住まいの方であればお力になれますからご相談ください。
武藤議員からも要請があれば対チョーセンジン戦参謀末席として参戦したく思います。

精神的苦痛に悩んでおられる方は大勢おられます。
その元にはチョーセンジンの存在があると気付いて欲しいと切に願います。
奴等のイジメや攻撃は社会的抹殺、自殺に至るまで止みません。

生粋の日本人を殺して、生粋の日本人の数を減らす事はチョーセンジン社会では常識的な命題です。
その為にチョーセンジンは様々な手段を用いています。
それが今の我が国社会の現実です。

お役にたてるなら幸甚至極に存じます。
近隣の方しか対応できませんが、ご遠慮無くご相談ください。