私なりの規則に則り、日付が変わって改めてご挨拶申し上げます。
明けましておめでとうございます。
どうか本年も宜しくお願い申し上げます。

さて、信心深い方もそうでない方も、それぞれの元日を過ごされた事と思います。
そうした折に抱く『新年の抱負』というものがあります。
神様の前で誓ったり、自分の胸に留めたり、それは色々なのでしょうが『新年の抱負』。

私はつくづく感じるのですが、自分の心やオツムで考える『新年の抱負』とは別に、結局は八百万の神々、ご先祖様、或いは先人たちが授けてくださる順序以外の展開は無いのではないかと。
自分で神様に誓って今年は『こうする』『ああする』と祈念しましても、そんな自分の思いとは全く関係なく、自分にふさわしい使命やお役目を授かる事になるのだろうと思えてなりません。

常々限界を感じている私でさえ、八百万の神々、ご先祖様、或いは先人達からいただく思し召しには逆らえません。
横着者であっても、『お前はあれと、これ、それからこっちも含めて精進せよ』と思し召しをいただいたなら、自分の思いがどうであれ、精進し注力する事になります。
『私にふさわしい使命があるなら、それをお授けください』と常々念願していますが、結局、思し召し以外の順序は無いと思うところです。

運命論者でしょうか。
八百万の神々、ご先祖様、或いは先人たちが自分に望む事は何か、そこをお誓い申し上げれば神々やご先祖様と一体となって奉公できる、そのように思えてなりません。

今年1年、命が持つかどうかさえ思し召しなのだと思います。
こうして年が明けて、それでもまだ息をしている事さえ思し召しなのだと思います。

大きい小さいは問題ではなく、自分にふさわしい使命を果たしたいと思います。

どうか本年も宜しくお願い申し上げます。