多くの日本国民の日常。
それは日々の自分達の暮らしを考える事。
真面目に働らいて給料や報酬を手にし、それで税金や社会保険料、国民年金を支払い、そして貯蓄する。
『国家』とか『地域』という概念を持たずに、ただ自分達の生活だけを考えて生きている。

個人生活という意味では現代の日本国民は賢い。
真面目に働き、手堅く稼いで、手堅く貯める。
立派な事で、相当な手腕だと思う。
が、その個人生活に長けている人に限って、個人とかけ離れた国際情勢だとか、政治情勢、経済情勢、社会情勢、地域情勢に疎いように見える。
日本人としての自覚にも欠けるし、ましてや日本人としての誇りを持っているわけでもなさそうに見える人が多い。

人は本来一人で生きられる生き物ではない。
群れを成し、それぞれの長所を発揮し、弱い部分を助け合って生きてきた。

その村に生まれれば、その村の風習に従い、親が醤油屋なら醤油屋を継ぎ、人々の生活に醬油を提供し、大工の子は大工になって村の家々を補修した。
跡取りがいなければ養子をもらってでも自分の役割を絶やさぬよう努めた。
その全体を掌握する地主や村長さんこそ、より自由は制限される。
自分が好きに生きれば村が崩壊するのだから。

そうした人の群れの中に個人の自由は溢れていない。
むしろ我を殺して和を尊び、「お互い様で」、「おかげさまで」と言って、自分が村を支え、自分は村に支えられていた。
自分で自分を守る事を考えずに済んだ。
自分で自分の事を考える必要も無かった。
我を殺して村の役に立っている限り、またその実績がある限り、たとえ病に伏しても村が自分を見捨てないから、そこでは自由は制限されていても無限の『安心』があった。

自分が支えている村だから、自分が生まれ育った村に誇りを持つ。
村同士が支え合う地域に誇りを持つ。
同時に他の地域からの転入者には厳しい目が向けられる。
それは自分達の村の伝統や風習を理解していない者であり、代々村の役に立ってきた者ではないのだから当然と言えば当然。
故に人々は『嫁ぐ』という行為以外で故郷を捨てる事は原則として無かった。
どの村も個人の自由が制限されて成り立ち、そうして維持され、栄えてきた。
日本人は誰であっても村に住む気高き一員だった。
仮に戦争に出向くなら、誇れる村人の一員として気高く生きた。
我が国は強かった。

今はどうか。

個人的な所見を書かずに終わった方がいいのかもしれないものの、敢えて書くなら、自由主義と個人主義により助け合いの精神も、お互いに尊重し合うもてなしの文化も、そして何より誇りも気高さも失ったのでないのだろうか。

その責任を合衆国と日本国憲法に擦り付けるのは容易い。
主犯がそこにあるとしても、そろそろ自分達民族の本来の姿を思い出し、復活に努める頃合いだと思うが、どうか。

事態は深刻を極めている。
個人主義と自由主義はかく言う私さえ蝕んでいる。
ましてや個人主義と自由主義を謳歌し、個人生活に専念している、思考無き多くの日本国民にどうやって手を付けるのか。

生まれた土地に留まって欲しい。
滋賀県・余呉に暮らす方が過疎化を嘆いていたのに強い印象を受けた。
例えば北陸新幹線ができたとして、便利になったとして、より自由になったとして、故郷を捨てて都市に出る人が増えるに決まっている。
その個人的自由は村の荒廃、引いては亡国に繋がる行為ではないのか。

さすらい人の私に言えた事ではないが、私の失敗を繰り返して欲しくない。
歯を食いしばって地元に留まり、誇りを持って嫁をもらい、地元の維持と繁栄に勤しんで欲しい。
そうした名も無き、されど気高き日本人の働きによって合衆国に恐怖を植え付けたのではなかったか。

我が国に蔓延してしまった自由と個人を重んじる風潮を一掃するには数十年はかかると思う。
短気な私は瞬時にやろうとするから絶望してしまう。
地道に根気よく続けないといけない。
その捨て石として命を捧げるのも悪くないと思う。

今でも発展途上国と呼ばれる国の人々は貧しくても気高く暮らしている。
そういう意味で言えば、私達日本人は経済規模世界第二位の恥かしい精神文化の国に落ちぶれた。
経済だけが人の世の物差しではない。
誇りと気高さを持ち、無限の安心を得られる国、地域。
そういう物差しも肝要だとするなら、今の我が国の個人の自由は過分に過ぎて精神を蝕んでいる。

かような発信をしてどこまで届くものかと思いつつ、少しずつでもいいので本来の我が国の姿に戻したいと願います。

日常生活の隅々に国家観念を持ちたいものです。