原子力と核兵器というのは一枚岩で、裏と表のようなものです。
日本では平和利用する場合を「原子力」、武器として使用する場合に「核」と呼びますが、同じ単語を用いる国もあります。
原子力と核兵器は同じものです。

先日も書きましたが、いつでも核兵器に転用できるようにという側面を含みつつ、日本は原子力を平和利用してきました。
これが気に入らなかったのがアメリカ、ロシア、中国、北朝鮮、韓国です。
今日まで日本を占領したり、日本から搾取したりしてきている、何としても日本に核を持って欲しくない国々です。

誰かと何かを交渉する際に、相手は胸にピストルを所持しているとすると、その相手を怒らせるわけにはいきません。
もしも怒らせてしまい、もしも撃たれたら、自分は即死です。
『法律があるし、まさか撃たないだろう』と思いたいところですが、相手がならず者だとしたら、自分が即死するという危険があります。
これでは交渉にならず、相手の言いなりになるしかありません。

ところが自分も包丁ではなく一発必中のピストルを持っていたら、相手が100発の拳銃を持っていたとしても、相手も自分を怒らせるわけにはいきません。
たった1発を持つだけで互角になります。
100発も1発も同じだけの脅威、それが核兵器たるものの特徴であり、これを所持して初めてならず者との交渉が成り立ちます。

「いやいや国際法があるじゃないか、国際法に守られているから怒らせても撃てやしない、大丈夫だ。」
これを『理想主義』と言います。

国際法が機能するなら第二次世界大戦でアメリカは有罪であり、日本に多額の賠償責任を負いますし、そもそも東京裁判の無茶苦茶な判決など無効になってしまいます。
中国のチベット支配もウイグル支配も有罪で、今直ぐに解放せねばなりません。

『現実主義』。
現実は力で動くのです。
勝った者、力のある者が全てを取り仕切り、弱い者、負けた者は強い者に屈服し、言いなりになる。
これが国際社会の現実です。

日本人には道義心があり、順法精神もあるので、日本人同士なら『理想主義』=『現実主義』という事になりますが、外国のように道義も法も理も無いケダモノ相手には力だけが発言力であり、外国相手に国際社会において『理想主義』で当たるのは全くのお門違いなのです。

日本には理想主義者しかいません。
国内ではそれで通用するからかもしれませんが、政治家、学者、研究者を含めて日本国内に現実主義者は一人もいません。
いや、石原慎太郎東京都知事だけは現実主義者ですが、都知事を除けば日本に現実主義の政治家も国際政治学者も一人もいません。
全員が理想主義者なのです。
現実主義の国際政治学を教える教授は東大にも京大にも一人もいません。

「核武装に関する議論はあっていい」と、たったそれだけ発言した中川昭一氏は殺害されました。
病死と報道されましたが実は暗殺で、その事を地方議員を含む全ての政治家が認識しているので、核武装への議論は誰もできなくなったという側面もあります。

先日も書いた、主権を失った日本。
外国に問答無用で侵略、搾取されるばかりか、教科書の内容や宗教儀式さえ外国の言いなりにならざるを得ないのが、皆さんが知って通りの日本の現実です。

日本の政治家は国家主権回復に向けた議論どころか、一言も口にできません。

どうしますか。

日本国民が日本の国家主権の回復に向けた世論を起こすしかないのです。
核武装するべきだと、日本国民が声を大にして叫ぶしかないのです。

現在は原発の事故が起こり、平和利用の『原子力』さえ否定されるという、工作された世論の論調です。
この状況で日本の核武装を言える人はいないでしょう。

自慢したい。
私が主催している『国を思う集い』では、皆が日本の核武装の必要性を認識している。
あり得ない。
どれほど素晴らしい人が結束してくれたか。
誇らしくて嬉しくて、涙が出そうなほど報われた思いです。

来年、言論弾圧法(人権侵害救済法)が成立すれば、こうした記事は削除されるだけでなく、私は投獄される時代になります。
あの手この手で日本を攻めているのです。

目覚めている人は今直ぐに行動を起こして欲しい。
目覚めていない人は今直ぐに目覚めて欲しい。
そして結束しましょう。
もう残された時間は長くありません。

親米保守というまやかしの保守ではなく、真に国を保守できる政治家が当選できる国民に、先ず自分がならないといけません。


明日は事務日です。