こちら(実家)に帰ってくると毎週日曜日にビデオやDVD、CDなどのレンタルに行く。そんな訳で三田に居てる時よりも多分映画や音楽に触れ合う事が多い。別に三田に居てる時に映画や音楽に触れないかと言ったらそうではない。近くに映画館があるし、ツタヤもあるし、CDショップもあるし。でも、そんなに金を使う訳にもいかない。だからより多くのものに触れる機会というのは実家に長期滞在してる時の方が多いかもしれない。

レンタルでニコール・キッドマンの「誘う女」とソフィー・マルソーの「女優マルキーズ」を借りた。あとラッセル・クロウ主演の「ビューティフルマインド」を妹が借りてた。
「ビューティフルマインド」に関してはちゃんと全部通して見た訳ではないが、それでも結構良い映画だと思った。感想は人それぞれだろうが。精神分裂症の数学者が病に苦しみながらも日々の生活を送りながらノーベル賞を受賞するまでの話だった。

ニコール・キッドマンの「誘う女」は最初見た時にイマイチどうなってるか掴みきれてなかったが、二回目見るとまぁ、納得といったところだろうか。このニコール・キッドマン演じる色気ムンムンの女が思春期の男子を誘い殺しをやらせるという話だったが、確かにあんな美人に誘われたら頭ボーッとする罠。思春期のガキを誘いながら踊るシーンなんか腰の動きがすげぇいろっぺかったからなぁ。
俺もそうだったけど中学後半から高校にかけて「大人の女性」に凄く憧れを持つもんだからね。大体大学生から上の女の人ね。だからと言ってその「大人の女性」と関われる機会なんて無いんだけどね。まぁ、他の人はどうか知らんが、俺は無かったよ。男って若い時、年上の女性に凄い憧れがあるんだけど、女の人は大体年上の男性に関心があったりする事が多いような気がします。ある程度社会的な背景とかあると思うんですがね。男が「大人の女性」に憧れを持つ時っては大体まだまだガキで、一方そういう「大人の女性」ってのはある程度社会的に自立した男性、色々と経験を持っている男性に憧れを持つようだから、条件が合致しない訳ですわ。多分。
俺も女子大生に片思いして玉砕した思い出がありますわ、懐かしい(笑)
もし大人の女性でそういうガキに関心があるような人は大体はここで言う「大人の女性」ではなくて「オバサン」です。
ちなみにこの「誘う女」ちょっと頭がイっちゃってます。
やっぱりニコール・キッドマンは綺麗だった。特に若い時とかはね。

ソフィー・マルソーの「女優マルキーズ」は娼婦から舞台女優になった女の話。
悲劇女優として成功するんだけど、皮肉なことに悲劇的な死を遂げてしまった女優さんの話です。時代は太陽王の時代でかなり昔で、女の人はコルセットとかつけてるんだけど、ソフィー・マルソーとかこのコルセットのせいでバストがはちきれんばかりだったので、凄かった。ホンマ「ナイスバデー」ってやつやな。それとこの間からソフィー・マルソーの映画とか見てるのだけど、この人脱ぎまくり。大体一本で最低一回は脱いでるよ。フランスではもともと「アイドル」だったそうなので、そこから脱却する為に体当たりしまくったって訳だろうか?でも、そういうところも含めて素敵な女優さんです、ソフィー・マルソーは。
そんな訳でソフィー・マルソー結構脱ぐ訳だけど、脱いでも凄く体が綺麗なんです。バストも異常にデカイとかそんなんじゃなくて、身長も高いってのもあるのかもしれないけど、ちゃんと均整が取れてる。美人だし。そりゃ脱ぎたくもなる罠(違
そんな訳でほんまソフィー・マルソーはええっす。話は戻ってしまうけど、ソフィー・マルソーも夫は結構年上の監督なんだそうです。「大人の女性」はガキには振り向かない、ですな。


「誘う女」はマスコミ志望で目立ちたがりだった。今は目立つことで名前を残すことが出来る。勿論多くの人が世に出てくる分、生存競争が続く。一時的に有名になってもいつの間にかそういった業界から消えることも少なくない。また、逆に目覚しい活躍を続けるとメディアに取り上げられることも多くなり、プライバシーが侵害されることも度々だ。また、真に良い意味で名前を残した人は悲劇的な最期を遂げ、その短い人生の中で強烈な印象を与えることで、しっかり自分の名前を歴史に刻むことも少なくない。音楽界ではフレディ・マーキュリーなどそうだろう、最近ではダイムバッグ・ダレルもそうなのだろう。日本では女優の夏目雅子。英国のダイアナ妃も短命だった。彼らは生前色々あっただろうが、結局は短命故に最期が悲劇的であった故に負のイメージを周囲に余り持たせることなく人生を生き抜き、惜しまれる最期を遂げた。「女優マルキーズ」も同じくだ。その人生の中で得た社会的地位や名誉は彼らにとって如何程のものであったのだろう?

それはどうであれ、我々は導かれるままに自らのシナリオを描いていくしかないだろう。好む好まざるに限らず。選択肢は幾つかあり、ある程度は自分に責任があったとしても、時に社会情勢であったり、天災であったりと、多くの偶発的要素が多分に自分の人生の一日一日に影響を与える。それでも、自分を責め追いやることなく生の続く限り生きたいものだ、と思う。