例えば、「子どもは親に感謝するべき」問題。



子ども側の意見

望んで生まれた訳では無い

育てるのは義務

そもそも親が毒親だった(これは特例)







親側の意見

育ててやった、多額のお金をかけた

親だって子を選べないんだから、や望んで生まれてきたんだ、と思う人もいる





子どもからしたら、

親が子どもに育ててやったんだから、金をかけたんだから感謝しろ!!って卑怯じゃない?中学までは言わずもがな、学生が自分で学費や生活費を用意するのがどれだけ大変かわかってるじゃん!!てか、払えないもしくは払いたくないんなら産むなよ!!自分で子ども持つことを選択したんだろ!!と言いたくなる。






しかし、親だって人間なのだから感謝はされたい。それに、いくらある程度想定していたとはいえ子育ては思ったより大変だしお金もかかるし、想定外の事だって毎日起こる。いくら自ら選んだ道とはいえ、自分の人生を削って子育てするんだから感謝されて当然だろう、と思う気持ちはすごくわかる。






私は多分子ども側として意見しているからそっちに都合のいい意見になるけど、もし親側だったら意見を変えるかもしれない。こういうとき、「親になればわかるよ」という言葉を思い出すが、「親になればわかる」というのは「大人になる」んじゃなくて「親にとって都合の良い意見をもつようになる」んだろう。立場が違えば自分にとって都合のいい意見、つまり正しいと思う意見が変わってしまう。







しかし親と子は対等ではない場合が多い。大抵は親の方が立場が上なので、子どもは親に従う。そうなると親と子の関係はどんどん悪くなる。ここで重要なのは、意見の相違は立場が違う以上絶対にあるので、話し合いを重ねて、少しでも理解することだと思った。それが出来ないからねじれるんだな…と。





つまり、偏った考えの持ち主や理解できない!と思うような一見間違った意見でも、お互いに話し合いをする能力があれば歩み寄れるわけで、大事なのは思考の是正ではなく話し合いをする能力なんだ。





毒親的人間でも話し合える能力さえあれば…って、そもそも毒親は話し合えないからそうなんだろうか?






それはそれとして、毒親育ちに無神経な物言いする、人の心がない人間は、擁護できないけどね。