「体育」と「スポーツ」

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「日本体育協会」が「日本スポーツ協会」に名称変更されました。

「体協」という略称が浸透しきっているので、なかなかこの変更に馴染むのは大変です。

「国体」も、「国民スポーツ大会」に変わるようで、どういう略称になるのか、少し心配ですね(笑)。

 

その名称変更の主旨説明を兼ねたシンポジウムが、先週の土曜に行われました。

体育系学科・学部を持つ大学や、公認スポーツ指導者の資格保持者に、事前に開催案内と通達がありました。しかも、今月は関東で開催し、後日関西でも行われるということです。すなわち、名称変更の経緯や理由が、協会側から公式に説明される場でもある…ということを意味するわけです。

私も所属学会の組織統合の際に、2年くらいかけてシンポや総会で名称変更の意義や主旨説明を行ったり、名称変更の際に会則の改訂とかを、事務局長としてガッツリやらせていただいた経験があります(笑)。会則改訂の際には一つ一つの文言の調整などが本当に大変で、一つ修正したらその後も修正しなきゃとか、その過程で別の文章に誤字脱字があったとか、会則のここを改訂したら、関係するこの規定の文言も変えなきゃならないとか、本来B型の標本のようないい加減な私のような人間には実に不向きな仕事で(笑)、本当にしんどかった思い出が多いです。

 

加えて、私も体協上級コーチ資格保有者ですし(あ、これからは「スポ協上級コーチ」って言うのかな?)、公認コーチや上級コーチの資格認定者の一人として、このシンポを聴きに行く義務があろうかと思い、数名の専任教員の皆さんと参加してきました。

 

これまで、私自身も一般教養のスポーツに関する講義授業で、少し触れてきましたが、「スポーツ」には言葉の成り立ちや歴史があり、「体育」にもまた、「身体のための教育」とか「身体を用いた教育」という意味がありました。

 

そのうち、「体育」には、時代が進むに連れて様々な付加価値がついてきます。

例えば、部活動における「体育」では、「礼儀作法」を身につけることとか、「上下関係」「強い選手・弱い選手の関係」など、様々な「ヒエラルキー」を認識したり、近年は「社会的スキルの醸成」も乗っかって、本来の「身体を動かす楽しみ」が、より「人間形成」に偏りつつあるようなイメージも持たれています。

「スポーツ」という言葉も同様です。最初は「遊び」「日常からの逃避」という目的で行われていた身体活動が、「ヘルスプロモーション」という言葉が生まれて以降、徐々に「健康維持・増進」という付加価値が加わり、近年では自治体挙げて「保険料」の軽減をしよう…といった動きも盛んです。近年は「認知機能の維持」とか「転倒予防」といった目的で行われる、様々な試みも出てきています。最近では「ライザップ」に見られるよう、成果主義的なスポーツプロモーションも、かなり多く見られるようになりましたよね。

 

私自身、本学科で教員養成のための水泳の実技授業を受け持って17年目になりますが、こんな経験があります。

5年くらい前に、水泳が得意な受講生の一人から面と向かって言われました。「俺、泳ぐのは好きだけど、この授業(水泳)は嫌いだ」と。

 

理由は、授業ではその学生が自由に泳げなかったためそれがストレスになっていたようで、その学生がいた班の指導員も、随分手を焼いていたようでした。

でも、彼の言っていることはある意味正しいのです。私や指導員もショックを受けましたし、逆にその学生に対して、「そういう場も楽しめる人間にならないと」…とも思っていました。しかし、彼の指摘は彼自身が感じた本心だろうと思えましたし、確かに泳げる人にとっては退屈な授業であることについて、私も真っ向から彼を否定できませんでした。換言すれば、彼らのような泳ぎができる人たちに「我慢を強いていた」ということになります。

 

それ以降、私も安全管理や「学問」として行う授業の中で、できる限り学生の主体性を高めようと思うようになりました。そこで、毎年全ての授業の終盤で行われるアンケートの内容をよく読み取ることは勿論、数年前から行っているリフレクションシートでの最終課題には授業への要望を書いてもらい、「なるほど」と思ったことについては、できるだけ翌年度の授業に反映させています。物理的な問題もあるので、全ての意見を採用するわけにはいきません。

 

しかし、その日の授業内容の説明でも、難しい専門用語を説明しつつ、時折デモンストレーションを行うSAの学生や弄ったり、受講している学生さんたちの発言機会をつくったりしながら、できるだけ明るい雰囲気で授業に入れるよう、心がけるようになりました。さらにリズム水泳の導入や、着衣泳でSAの学生達に寸劇を作らせるとか、リレー大会を開いたり、そんなことを重ねてきた結果、年を追うごとに、授業に活気が出てきていると感じていますし、SAの希望者が以前より増えてきました。それもこれも、あの時私に指摘してくれた学生さんのおかげです。

 

水泳というスポーツは、「自由にできる」ことが大きな特徴であり本質です。しかし、授業の進行上、泳ぐ距離や方向、本数をある程度制限しなければ、授業時間内に目標の達成に到達できません。加えて泳ぐのが苦手な学生も混在しますから、ある程度は個別に指導しつつも、バランスを取って進度を調整していかねばなりません。さらに、教員免許取得希望者や公認コーチ資格取得目的の学生もいますので、技術試験もそれなりのレベルに設定せねばなりません。そうなると、「水泳が好きだけど泳ぎは得意ではない」という生徒達の趣向は、一旦置き去りにせねばならなくなります。

これらの多くのジレンマは、先に挙げた「体育」と「スポーツ」が、様々な目的が付加されるごとに、本来の「楽しさ」から徐々に乖離していく過程で抱えた問題と、よく似ているなあ…と思えてくるのです。

様々な意味や価値が付加されれば、それに見合うような指導内容・カリキュラムにせねばならなくなります。そうやっていくうちに、段々付加価値として加えられたことに縛られてしまい、「目標達成主義」の授業内容や指導内容にせざるを得なくなります。

 

部活動に置き換えてみますと、「競技成績」を追い求める一方で、「人間性」の醸成が大きな課題として降りかかってきます。しかし、あるスポーツでは、全国レベルの部の監督さんが「ウチは挨拶ができなかったら、練習はさせません」という方がいらっしゃるようです。その哲学そのものは問題がないにせよ、近年ではそういった指導が「強制力」を持つものとして「パワハラ」と受取られかねないのもまた、事実です。

 

それとは別に、パワハラのような問題にこそなりませんが、「人間性」の向上に力を入れる一方で、競技成績が伸びなくても仕方ない…という指導者も実は少なくありません。そういった指導者の「付加価値」への傾倒が、肝心な指導者の指導力向上を妨げる「逃げ道」になっている印象を受けることも、多々あります。

 

こういった現象からも、「体育」「スポーツ」という言葉の意味解釈が、現代では過渡期に達した印象は拭えません。換言すれば、人間が、体育やスポーツに多くのものを期待し過ぎているとも思えます。それを軌道修正するにしても、より大きなきっかけがないと、見直しは難しいですよね。東京オリ・パラを前に少しでも前に進むべく、この時期に協会が「体育」から「スポーツ」へ名称変更したということは、今一度、「体育」や「スポーツ」の本来の意味を我々も再認識し、時代の変化に対応した形にリメイクする。それらを行う場所や目的が違っても、スポーツの本質である「遊び」という要素を外さず、教育や選手強化に繋げる…と漠然とではありますが、思っております。

 

これを期に今一度、私自身がどうだったか、そして授業やアスリートの指導をどのような方向性で進めて行くのが望ましいのか…東京2020の話しは一旦置いといて、よくよく考えながら、前に進みたいと思います。

 

さあ、こうなると話しが段々ややこしい方向へいくのですが…

どうやら、日本体育学会も「日本スポーツ学会」に名称変更するのではないか?と一部で噂されています。そうなると、我々が所属している「体育方法専門領域」も、組織統合している日本コーチング学会の名称を優先して、「コーチング学専門領域」となるのかもしれません。

となるとですね…また会則の改訂やら面倒な話しが沢山湧き出てきます(笑)。まあ、時代を前に進めるということは、誰かしらがそういう苦労を一身に背負って、多くの実務・手続きをしていくわけですね(笑)。今回の協会の名称変更も、かなり多くのスポーツ協会の事務方が、大変なご苦労をされたことと、推察します。そういう方々に感謝しつつ、この業界がより良い方向へ進むよう、微力ながら尽力したいと思います。