本日4時47分頃、千葉県東方沖を震源とする、マグニチュード6.2の大きな地震があった。

千葉県旭市で、最大震度5弱。震源の深さは約30km。このブログを読む千葉県周辺の方、早朝の大きな揺れで驚いたと思われるが、どうか落ち着いて行動して欲しい。

また強い余震が来る可能性もある。落ち着きながらも、まだ警戒は怠らないようにして欲しい。

幸いにも、津波の心配はないと言う事。だが、若干の潮位の変化が起こる可能性はある。興味本位で海岸を見に行くと言う事は、くれぐれもやめて欲しい。

私は、ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲を聴いている最中に、千葉県東方沖で強い揺れがあったとLINEニュースで知った。今はNHKテレビを見て情報収集している。

もう忘れかけていた、2011年3月11日の出来事。

東日本大震災。

あの時の気持ちを、今となってまざまざと思い返した。

仙台に住む、僕も東日本大震災の被災者となった。

午後2時46分。

私は、当時勤めていた福祉事業所で、この大震災を体験する事となった。

福祉事業所の2階で、同僚と談笑している最中に、突然襲って来た揺れ。

揺れ始めは、まさかあんな大震災に発展するとは思えなかった。同僚に、「何か揺れてますね」とのんびり気分で話していたが、その10数秒後には、まるで天地がひっくり返ると思える程の大きな揺れに発展して行った。

「シャレなんねー」

僕は思わずそう叫んでいた。

備え付けのテレビはひっくり返り、一瞬にして停電。大地が波打つかのような強い揺れ。福祉事業所が倒壊するかと思われるような強い揺れ。

僕は、人生の終わりも覚悟した。

3分以上揺れただろうか。福祉事業所は、仙台市内の若林区と言う所にある。若林区は、後に最大震度6弱だったと観測された。

しかし、僕にとっては、震度7ほどの揺れの方に感じた。

3分以上揺れた後に、揺れは一旦収まって行った。

「生きてて良かったー」

僕は思わずこう叫んだ。

福祉事業所の1階に降りてみると、机もテレビも何もかもがひっくり返り、悲惨な状況。震度5程度の余震が引っ切りなしに繰り返される。

当然、仕事は中止され、上司の車に分乗してそれぞれの家に送ると言う話があったが、僕は停電で信号機が止まり、道が渋滞して車が動けなくなるリスクを想定して、歩いて3キロ程の避難所に行く事を選択した。

1人避難所まで歩く道。季節外れの雪が吹きすさび、寒さに凍えながら避難所までの道のりを歩いた事を覚えている。

それから8日間の避難所生活が始まった。

最初の夜は、電気も止まっていたので真っ暗闇で、子供の泣き声があちらこちらで聞こえて来る。

僕は、「生きてここを出るんだ」と思う一心で、8日間の避難所生活を耐えた。

2日目には、早くも電気が復旧。避難所の体育館の電灯がパッと灯った瞬間、拍手が鳴り響いたのを今でも覚えている。

あれから、早や9年。色々あったが9年間無事に過ごせて、感謝している。

「天災は忘れた頃にやってくる」

寺田寅彦氏が遺したとされる言葉。今朝の千葉県東方沖の大きな揺れで、この言葉が頭の中をよぎった。

日本は、地震大国。最近様々な場所で地震が頻発している。地震に対する警戒は、常に緩めていてはいけない。

東日本大震災から既に9年の年月が過ぎた。東北地方は、この年月で復興したと言えるだろうか。

大津波で家族を亡くした震災孤児。この先長くかかるであろう福島第一原発の廃炉作業。未だ帰還困難区域に戻れない福島の人々。





あの日、私たちは戦っていました。しかし、まだ戦いから終わっていない人々もたくさんいる。



僕も、大震災を経験した一人として、様々な場所でこの天災を伝え継いで行きたい。



そう。1000年後にも、この大震災の教訓が残されている事を強く祈る。

1000年後。僕はその時にはこの世にいないだろうが、人が人を思いやる心だけは、1000年後の地球にも根付いて欲しいものだ。