ある土曜日、雨がしとしと降る日の夕刻、誰にも告げず息子は天に旅立ちました。

その日の彼の異変には全くきづくことが出来ませんでした。

 

「まさか!」「どうして」「とうとうこんなことが!起きてしまった」

そんな言葉が脳裏を駆け巡りました。天と地がひっくり返ったようなとんでもないことが起きたことだけはわかり、息子の異変に何も気づけなかった自分に、うちのめされました。

 

その日、台所で忙しく夕飯の準備をしている私に話しかけようとした息子。

夕方からの外出に気をとられて、「夕ご飯はこれを食べてね」と見当違いの言葉を発していた私。その時の悲し気な顔を私は今も忘れられません。翌日は父(息子からは祖父)の一周忌でしたが、息子は体調不良で欠席の予定でした。そのことが悲しいのだろうと、勝手な解釈をし、彼の何かを話したい気持ちを受けとめる配慮が欠落していた私。

長い間その日の息子に対する自分の対応を許すことができませんでした。

うかつな私に対して、大きな天罰が下されたと感じました。

 

息子も私もクリスチャンではありませんでしたが、葬儀は教会でしました。息子が幼い頃から何度か訪れていた教会です。

経験豊かな牧師先生は、号泣して息子の死を悼んでくださいました。

そして、なぜ死んだのかは人にはわからないが、神様の愛が苦しんでいる彼を天に引き上げて下さったと語ってくださいました。

自死は神仏の天罰ではなく、神様の深い愛ゆえに彼は旅立ったのか。

凍り付いていた心が少し緩み、神様に抱かれている息子の姿が心に浮かぶようになりました。絶望の中でのほのかな救いの灯でした。

スピリチュアルペイン(魂の痛み、生きる苦悩)を味わっている人には、言葉は時にナイフになり、時に生きる支えにもなるのですね。