「詩と私論(その6)」(「岡崎」と「高窓」) | St.Augustinusのように語りたくて・・・・

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インターネットに持っているのは、様々な形で、これで7個目になってしまいました。時々、逸脱します!そんな時、「告白」を読み返したいと思います。余りに重いタイトル。少しでも、何かを語れればと思いました。

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“ふたりをめぐり、暗闇に、かぐろき波は砕けたり。

乳光色と金色の遠方はるか、大西洋に、

海のあなたの国々は、神秘の光を放ちつつ。

凍てつける大気をこめて海藻の香は漂ひぬ。/

断崖にとどろきわたる千載の古りし谺や。

轡なき渦潮吼ゆるおおうみの波のうねりは

青銅の巌に砕け、重く、重く、泡立ちぬ。

砂丘の上に墓地ありて、十字架あまた輝けり。/“

(「残酷物語」(リラダン、齋藤磯雄氏訳;筑摩叢書))

それは半透明の月かげに照らされて、鬱然と見えた。

頂きの巨きな金の十字架があかあかと照らし出され、

これに侍するように、航空標識の赤い燈が、点々と屋上

と空とを劃して明滅しているのである。/“

(「花ざかりの森・憂国」(三島由紀夫氏;新潮文庫))

“わが胸の深遠に

黒衣聖母のあり

心して赴け 道ゆく旅人よ/

風ある日

渚を旅けば

顔しかめる水面にも

爾が小胸の秘奥なる

かの黒衣の善き母を視む/

もし、照る日のもとをあゆみなば

湿気ある処女林の扉近く

一位の樹の繁みぶかくに

爾が輝ける御母を

垣間見ることもあるべし・・・/“

(「日夏耿之介詩集」(新潮文庫))

日夏先生・齋藤先生・三島先生。文体の系譜。

氏の故郷・飯田で生まれた。

。。。

6 この子と二人

昔別れたとと様は

丸い大きな青空のもと

どこぞの街をさ迷ってるじゃろか

何処の草むら酔ってるじゃろか/

遠く離れた人里恋し

麓の夕は直ぐ暮れる

山の頂きで栗採って食べよか

里に咲いてる菊の根摘もか/

日が暮れ夜が明け明日になったなら

この子と二人

あの岡崎様を越えて行こう/

今日じゃ明日じゃと

この子のてて親探し旅続け

今日も街中三ツ辻の脇

座り惚けて待ち惚けて/

あれお侍さんやこれ商人様かえ

遠目にゃとと様に見えれども

近く寄ってお姿拝すれば

赤の他人許りじゃありませぬか/

女子供の道連れには

山の空っ風寒かろうに

とと様求めてさ迷う二人

瘡蓋だらけの犬さえ避けて/

今日もこの子と二人して

街の三ツ辻座り惚け

冬のひと日が暮れていく/

6 雀蛾の立ち惑い飛ぶ高窓の遠き信濃に我帰らばや

。。。

小牧・岡崎に母は若い頃いた。高窓は母の実家高遠。

「我帰らばや」、犀星の詩の連想は容易。

「遠き都」「ひとり都のゆふぐれにふるさとおもひ涙ぐむ」。

実家まで電車で30分ほど。帰る度、母と駅の名を連唱。

車窓から遠い街灯りが。

三ツ辻は実家の田の畦道。

コスモス街道。

三島氏が祖母、三好氏は母。

時はたそがれ

母よ私の乳母車を押せ

泣きぬれる夕陽にむかって

りんりんと私乳母車を押せ/“

結局、引用で終わる。

グレゴリアンを聴きつつ。

写真は東京。年末応用数理学会で。

この小文が少しでも皆様の糧となれば嬉しく思います。

主のお恵みが皆様と皆様のご家族に豊かに御座いますよう、

お祈り申し上げつつ。主への賛美と感謝とともに。

2012.1.2.

乗倉 寿明 記す