中 勘助(なかかんすけ)という、明治〜大正時代の作家が書いた『銀の匙』という小説があります。私はこの作品を大学の図書館で読みましたので、遠い昔の記憶です。

ですが、内容はすっかり忘れたその小説の、冒頭部分の表現が非常に素敵で、折に触れて思い出します。このような書き出しです。


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「私の書斎のいろいろながらくた物などいれた本箱の抽匣(ひきだし)に昔からひとつの小箱がしまつてある。

それはコルク質の木で、板の合せめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはつてあるが、もとは舶来の粉煙草でもはひつてたものらしい。なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合がくすんで手触りの柔いこと、蓋をするとき ぱん とふつくらした音のすることなどのために今でもお気にいりの物のひとつになつてゐる。」

(中 勘助『銀の匙』より引用)

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なんと丁寧で柔らかな言葉遣いなんでしょうね。

この〈小箱〉が、まざまざとまぶたに浮かぶようです。



今はほとんど使われていない机。その引き出しをがらりと開けると、そこには小さな木の箱が入っているのです。輸入品の粉煙草が入っていたということは、マッチ箱程度のサイズでしょうか。その立方体のすべての面に牡丹柄の色紙が貼られているのですね。

そして…


〈手触りの柔いこと、蓋をするとき ぱん とふつくらした音のすること〉


ここが非常に好きです。

柔らかな材質で作られた木箱というものは、閉じるときに蓋と本体がぶつかると、まさに〈ぱん〉と、〈ふっくらした音〉がしますよね。

ここまで読むだけで、幼い頃の幸せな、甘い喜びの思い出についての物語なのだと想像が膨らみます。

この話を書いたのは、本記事タイトル『イタリア遺聞』を読んだとき、ほかならぬこの『銀の匙』を思い出したためです。


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『イタリア遺聞』は、才媛と誉れ高かったであろう塩野七生(しおのななみ)さんが、約40年前に執筆されたエッセイ集です。

全30話収載されています。

エッセイとは、言わば雑文であり、身の回りの出来事についての所感です。そこにテーマだの人生の機微だのといった〈心が動かされたぜ!〉的な要素は含まれない場合が多いので、感想を書くことはなかなか難しいです💦



もちろん、作家の実体験を削って書かれたような、非常に感動するエッセイもあります。私にとっては向田邦子さんや、中島らもさんなどがそうです。随分と心を支えてもらいました。

しかし、本書はそのタイプではありません。



それでも、この本について感想が書きたいです。

塩野さんの素晴らしい表現力と、

何度推敲されたのかと思わされるほど全く揺らぎの見えない完璧な構成と、

惜しげもなく披露される、幾重にもなった尽きない知識の数々。

エッセイとは本来、このような知的好奇心を凝縮した読み物なのでしょう。






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本書において『銀の匙』に似ていると感じたのは、以下のような表現です。


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「…周辺のレースは、繊細な出来ながらいまだにどこもほつれたところはないが、中央の絹地のほうが、四つにたたんだ線のところから五センチほど十字に切れてしまっていて、実用にはならない。

百年近くも経たものとて仕方ないのだが、あまりにも繊細で精巧なこのレースのハンカチーフを眺めていると、その昔、ヨーロッパ中のお洒落な人々が一枚は欲しいと願った、有名なヴェネツィア製のレースの見事さがしのばれてくる。」

(塩野七生『イタリア遺聞』第2話『デスデモナのハンカチーフ』より引用)

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皆さん、文章を書くときに、名詞を修飾する言葉を考えますよね。候補としてまず浮かぶのは、形容詞や形容動詞です。

〈美しい〉〈綺麗な〉などですね。



もう少し考えたい人は比喩を使います。〈〜ような〉を末尾に付ければちょっぴり個性を出せるからです。

〈貴婦人が使うような〉〈まるで薔薇のような〉など、無限に作れます。



尖った表現を作りたい人は、あえてプラスとマイナス、反対のベクトルの単語を組み合わせます。

〈地獄の微笑み〉〈邪悪な天使〉〈嘘だらけのユートピア〉などです。

だってほら、インパクトがあるじゃないですか?



でもね。

ポイントで使うなら素敵ですが、そういった言葉ばかりだとお腹いっぱいです。

作者の〈どうだー!〉という気持ちが透けて見えちゃってね…😅


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先に挙げた本書の『デスデモナのハンカチーフ』からの引用箇所は、ハンカチーフのきらびやかさについて述べた文章です。

しかしそこに〈綺麗な〉〈素敵な〉といった馴染み深い表現は一切ありません。



代わりにあるのは、〈繊細な〉〈精巧な〉〈見事さ〉、そして〈ヨーロッパ中のお洒落な人々が一枚は欲しいと願った〉という、具体性の強い修飾語です。レースがいかに細かく、そしてきっちり作られ、人々が熱中した素晴らしい出来栄えであったかがわかります。

塩野さんのビシッと的確な言葉選びに、惚れ惚れしてしまいます。



また、〈百年近くも…〉から始まる長々とした形容句を受ける末尾は、〈…しのばれてくる〉とたおやかな言葉でスッキリ締めくくっています。

ここを平仮名にするの、センスいいですよねー。

重かった文頭に対し、最後にかな文字を置くことで、硬軟のバランスが効いています。



さらには、〈破れた〉ではなく〈ほつれた〉や、

〈四つになった〉ではなく〈四つにたたんだ〉という、やや古風な動詞を使用することで、格調高い文章になっています。

過剰な比喩や、無駄に尖りすぎた表現を使わずとも伝わる、本当に素敵な表現ばかりです。

サラッと読んでしまいますが、こういった目立たない、何気ない箇所の表現ですら、かなり考えてお書きになっていると思います。

収められたエッセイ30編すべてにおいて、この調子なのです。


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そして本書が素晴らしいのは、これらのエッセイの内容は〈作者の所感〉ではないのです。

塩野さんが伝えたいことは、

〈私はこれが好きだ・嫌いだ・腹立たしい・嬉しい・感動した〉

といった個人的な感想ではないのです。

我々読者に、共感を求めてはいないのです。



エッセイを読んでいたはずなのに、いつの間にかヴェネツィア商人のしたたかな外交戦略に感心したり、トルコの後宮(ハレム)のイメージと実際の違いに笑ってしまったり。

膨大な歴史資料や、インターネットもない時代にどうやって入手したのかお聞きしたいような外交文書、外国の文化に対する圧倒的な知識量を元に書かれた本書において、塩野さんが見せたいものは、


【歴史=人間の営みとは、なんと面白いのか!】


ということに尽きると思います。

歴史好き、異文化好き、文章好きな人間にはたまらない、珠玉のエッセイ集なのです。

塩野さんの表現をお借りするならば、

〈歴史は、それが起こった時点に立ち、同時代人の間に混じって眺めると、実に愉しいもの〉

ということがじっくり堪能できる、素晴らしい歴史探訪書なのです✨


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本記事は、アップまで時間が空いた上に、読みにくさ抜群の読書記事でした 笑

あのですね。

文章というものは、①表現力と、②構成力と、③テーマ性で成り立っていると考えます。どれも大切です。

②は、キャラクター設定や、ミステリーのどんでん返しなどでよく語られます(それだけじゃないですがね…)。

③は、本屋大賞の歴代受賞作品などを見ればおわかりになるかと思います。

しかし、①については曖昧にとらえられていると常々感じていたため、今回この素敵な本に便乗して少しだけ、ちゃっかり書きたくなりました🎵



奇抜な言葉を使ってウケればよいのではないし、

難解な言い回し=イケてる、でもないはずです。

自分だけがうっとりする文もノーサンキューです。

書いた本人がきっちりわかった上で、

よく知られているけれどまだ誰にも見つけられていない、

不思議な感じなのに懐かしい匂いのする言葉を、

印象的に・的確に使うことで、

表現というものは生きてくるのだと思います。



そして、それを鮮やかに見せてくれる方が、

【天才✨】

と呼ばれるのではないでしょうか。

そんな方が書いた文章や歌詞に触れる瞬間は、本当に幸せです。


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お読み下さった精鋭の皆さん、ありがとうございます。読書記事はいつも安定の不人気です。でも書くけどね。そんな中、いらして下さり感謝です。(ペコリ🙇‍♀)

小説の感想ですらない本記事、スピッツで日頃お付き合い下さっている方々には、なかなかに退屈で苦しい闘いであったことと思います。

よくぞここまで辿り着いて下さいました😂!

そんなあなたと仲良くなりたいです♥ぜひご連絡下さいね🎵



次回はたぶんスキマフェス当落のご報告です。

役立つ情報は何ひとつなく、私が騒いでいるだけの記事です。それでもよろしければ、ぜひ2/28以降に読みにいらして下さい😊

それでは皆さん、ご機嫌よう。

グッバイさよならです!