BOOKカフェではないのですが、

・読書するお客様のため、一切の会話禁止

・注文も極力小声、もしくは筆談

という、少し変わった喫茶店があります。

以前メディアで紹介されており、いつか機会があれば訪れてみたいと思っていました。



先日、電車を乗り継ぎ、道に迷いながら行ってきました。

店内のテーブルに、以前来たお客さんたちが書いた読書記録やオススメ本に関するメモが残されており、自由に閲覧できるとのことで、それを読みたかったのもあります🥰

(実際に読んだら失恋話やモラトリアム的な独白がほとんどで、ちょっと肩すかしでした。別にいいんだけど、読書記録じゃないよなぁ…残念💦)

店内はとっても静か。水槽の音だけが聞こえています。最高の静寂です。

また行きたいと思います。




その素敵なお店に持参して、読み耽った本です↓
少し暗い内容の本です。

◆◆◆

福永武彦「忘却の河」


福永武彦は、若い頃に「退屈な少年」「世界の終り」など、中編小説を何編か読みました。
この作家の〈精神が病んだ人物の描写〉がたまらなく好きです。大変スリリングなのです。今そこに、その本人がいるかのような生々しさで、バランスを崩していく人の思考回路を追うことができます。


「忘却の河」は、全7章からなる長編小説です。
章ごとに語り手が変わり、少しずつ物語が進行していきます。
中年男の家庭を主軸としています。主人公である陰気な中年男、長年病に臥せている彼の妻、母の看護のため家に籠もりがちの長女、陽気な大学生の次女。いかにも対立しそうなこの姉妹に諍いはなく、仲良しですし、ヤングケアラー問題をこそっと提示したいわけでもありません。
人間関係における光と闇や、社会問題を描いた話ではないのです。
なにしろ1964年刊行の古い本ですから。

◆◆◆

本書のテーマは、おそらく〈愛とは、罪の意識と許しである〉という深淵なものです。

***

・自分は罪深いことをして人を傷つけた=それを自覚し、忘れないことこそが愛。
・罪深い行為をされたが、許したい=それこそが愛。

***

なんとまわりくどい…そしてわかりにくい…。
各章で、様々な形の愛(異性愛、家族愛、許されぬ形の愛)を語らせます。共感できるものも、理解が難しいものもあります。


私の大好きな池澤夏樹大先生が本書に解説を寄せられており、大先生は本書テーマを、私などよりもっと深く難解に読み解き、〈魂としての人間〉だとおっしゃられています。しかし、私には高尚すぎてそこまでは読み取れませんでした…。
(※解説自体は相変わらず、うっとりするほど素敵な、読ませる文章です✨さすがお父上のご本の解説であり、力が入っておられます)


大先生、申し訳ありません。
私には教養が足りず、そこまで本書全体には面白さを感じとることができませんでした。
しかし、5章だけ突出して魅力に溢れており、どうしても感想を書きたくなりました。

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そんな5章です。
本章の語り手は、長女に恋愛感情を持つ30代の既婚者(長女の学生時代の美術教師)です。清純な長女もこの男に恋心を持ってはいますが、男の気持ちには全く気付いていません。
男は、偶然を装った美術館の個展デートに長女を誘ったり(彼の職業は美術評論家なのです)、もっと深い関係になることを夢見たりしています。しかし、現実を壊す〈何か〉が男にはありません。
決断力か、勢いか、愛の誠実さか。男に足りないそれは一体何でしょうか。


そんな彼の状態を表す描写が、3箇所あります。
①冬の朝に、氷の中に閉じ込められた枯れ葉
②タクシーの中から窓ガラス越しに見た、自分とは関係のない交通事故
③宝石店のショーケースで、城の形をした硝子の上に置かれ、光を反射してきらめくネックレスやブローチ(←ここから章タイトル「硝子の城」が取られています)


彼自身は、外の世界に触れることはできなくても安全な、窓ガラスや氷の〈こちら側〉にいる自分について、諦めつつも満足しています。失った若かりし頃の情熱に比べ、手にしたもののなんと小さなことかと、1人嘆きつつも。
30代。妻と幼子と義母との穏やかだが、揺らぎようのない味気ない暮らし。そういう年代なんでしょうかね。夢や希望に見切りをつけて、ささやかな現実にはまっていくお年頃。仕方ないのかな。

・・・・・・・

そんな中、彼はある個展会場で、偶然2人の人物と出会います。精力的な初老の画家と、その友人である陰気な中年男(=主人公)です。
この陰気な中年男というのは、もちろん彼が愛おしく想っている女性(長女)の父親です。彼のみが、この中年男=好きな女性の父親だと知っています。
一方で中年男のほうは、彼を全く知りません。
彼はまず、画家と会話を交わします。


この画家は、つまり〈実作者〉です。実際に物事に取り組み、考え、行動していく人です。周囲の評価や年齢などは大事ではなく、自分の納得がいく作品を作ることに夢中です。いつまでも子供時代のような情熱を持ち続けています。
一方で、美術評論家の彼自身は〈傍観者〉です。賢しげな言葉はたくさん知っていて、美術史にも詳しく、利口そうな文章は書けますが、そこには実体がありません。
そのことを彼は改めて思い知り、ずっと歳上でありながら、彼よりもエネルギッシュな画家を羨ましく思います。


次に、彼は陰気な中年男と世間話をします。
その際、中年男が長女に向けた、全く派手でもなく見栄えもしない、誰アピールもない陰気で実直な〈本物の愛〉を見たときに、彼の中で、長女への恋愛感情が死ぬのです。


小説には書かれていませんが、父親(中年男)はおそらく、娘のために自分が死ぬことも、誰かと刺し違えることもできそうです。それも静かに、当然のこととして。
この父親の、娘に対する愛のスタンスは〈実作者〉そのものなのです。様々な条件や周囲の環境、相手の気持ちなどは関係なく、娘を愛し幸せを願うのはこの父親には〈当たり前〉なのです。
そこに自分の幸せが付随しているかなど全くどうでもよいのです。
到底、傍観者が勝てるものではありません。
彼は一人勝手に敗北感にまみれ、うなだれます。

***

いつしか自分は、光を発することなく反射するだけの、硝子の城のようになってしまった。これから傍観者として、他の人間が生きたり恋愛したりするのを、ただ眺めているだけのつまらない人生を送るのだろう。

***

と彼は思い、家路につく…と思いきや、どこかへ立ち去ってしまいます。
自宅と反対方向に歩むのであれば、それは毅然とした決意ですから、前途に困難はあれど心は晴れやかでしょう。
しかし彼は、帰路の地下鉄への階段を降りず、その脇の道を進んでふらりとどこかへ行ってしまうのです。
ちゃんと帰ってくるのでしょうか。
恐ろしいです。

◆◆◆

いくら上辺を取り繕い、整然とスマートに生きて、称賛を集めても、結局のところ傍観者は永遠に実作者にかなわないのでしょうね。
〈0〉から〈1〉を生み出せる人と、その〈1〉を、あちこちの方向から触ったり、こねくり回したり、まるで自分の作品であるかのように分解して悦に入る人。我々の日常においても時折見かける、しんどい光景です。
そのことを遠く1964年から揶揄するかのような、ぬるい棘のある5章。


本書において、この5章だけがどうしようもなく心に引っかかります。それはつまり、


【私自身が傍観者であるから】


なのかもしれませんね。