この記事の内容は、様々な資料をもとに書かれています。
内容の中には一部ないしは全体を通して、資料に基づく偏見や誤りがある可能性があります。また、筆者自身による偏見や誤りがある可能性も当然否定できません。
できる限り公平かつ事実に基づいて記事を書きたいと考えていますが、この点を踏まえていただけましたら幸いです。
今回のテーマは共産主義です。以前に書いた記事を紹介したいと思います。
2019年02月16日
はじめに
私が繰り返し言及している点、新保守主義・新自由主義・リベラルは共産主義者による偽装された保守主義、自由主義であるという論点について、この辺りの歴史的背景を論じなければ了解していただけない部分があるものと思われるが、共産主義という理想主義、全体主義、基礎づけ主義も、そもそも政治思想として偽装されたものであるという表現も実際には一面的に事実であろうと思われる。
共産主義を生み出した人々
共産主義者を生み出した人々およびそれを実際に支持し、指導してきた人々の本体は、そもそもがただの一度も彼らにとっての母体、国体を体感したことがない人々であった。彼らにとって国家とは、他人の国家であり、他民族の国家であり、敵国の国家でしかなかった。
彼らは国家に対して敵対的感情しか体感されておらず、国家とは常に彼らを拘束し、追放し、迫害する組織でしかなかった。時に人々は彼らが彼らが住んでいた国家に一方的に敵視されていたと考えがちだが、実際には拘束・追放・迫害する側の民族、国家、政府にも、彼らを敵視しないわけにはいかないだけの理由が確かにあった。
彼らの政治思想を形成しているベースとなるそもそもの死生観や宗教観が、彼らが住む地域や国家の人々と絶対的に相容れない価値観を彼らは部分的に形成していたという事実は決して見逃すべき拘束・追放・迫害の根拠にはならない。
実際は彼らの価値観がその国の国家を、政府を、国民の生活を蝕む可能性あるいは解釈可能性を有していないとは言えないのである。
彼らの工作・謀略・扇動
共産主義を生み出した、ヨーロッパの住民たちとは決して相容れることがなかった人々は、これらの地域の住民に対して様々な工作、謀略、扇動を行う可能性を想定することは、古代から続く兵法の観点から見ても、十分に想定されうる行為である。むしろ全く彼らが何の工作も、謀略も、扇動も行わずに従順に、どこぞやの宗教の聖者の如くに、拘束、追放、迫害を甘んじて受けるなどという可能性はまず想定しえない。
実際に彼ら共産主義者の生みの親たちおよびその先導者たちは、その宗教的背景において、自らの民族を選ばれた者と見定めていたのである。
共産主義からの発展
彼らが説いた無神論を、彼ら自身が信じていたのか、あるいは信じていなかったのかという別を問わずに、その影響が全くないという可能性は想定しえない。彼らの無神論が、実際にすべての宗教的な信仰の対象である神を否定していたのか、あるいはその地域の人々から信仰心を取る払うことを真に目的としていたのかは、厳密には測りかねるところもなくはないが、いずれにせよ、カール・マルクスがそうであったように、彼らは自分たちの民族性を、その根底からは否定していない。
彼らは、やがてフランクフルト学派のアドルノやホルクハイマーの否定弁証法という概念やフロイトの精神分析を駆使しつつ、プロレタリアートと見なしていた人々から、一般的な学生や一般的な中産階級の市民に対して、工作を行っていくのだが、このようなフランクフルト学派のような流れを受けて、欧米社会において右側の思想の中核をなしてきた保守主義および自由主義にまで、その政治思想を偽装した宗教的および民族的思想が、彼らにとっての異民族の思考を狂わせ始めることになる。
新保守主義のノーマン・ポドレツやアーヴィング・クリストル、新自由主義のミルトン・フリードマンやその支持者のウォルター・リップマン、更にリベラルは宗教的な枠組みを超えて、アメリカの民主党の主要議員の多くに見られるように、その国のリベラル派の多くに支持されてきた。現在、しばしば言われているところの、ポリティカル・コレクトネスなる概念は、当然に、情報戦あるいは思想戦における工作・謀略・洗脳と考えるべきである。そもそもこのような基礎づけ主義には科学的な根拠などそもそも全く存在しないということは、既に長く言われていることである。
このように初期のマルクス主義からレーニンや多くの彼らの仲間たちの行った共産主義から、現在は彼らの考えやその影響は新保守主義・新自由主義・リベラルなどを通じて、そしてそういった思想がメディアを通じて拡散されていることをもって、世界中の諸国民の一般認識に大きな地位を築いたのである。
これらの思想、つまり共産主義、新保守主義、新自由主義、リベラルは、同じ母体から生まれた、本来的に大きな違いのない、何ら世界の本来的な国体にはなり得ない、全くのフィクションであったのだが、実際に世界の諸国民は、いつの間にかこの共産主義、新保守主義、新自由主義、リベラルを中心に、本源的な意味において同じ選択肢しか選べないように、支配されてしまっているのである。
カニバリズムの秩序
オランダ、イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、イタリア、ドイツ、日本と、着実に彼らの思想はこれらの先進国を中心に支配的な地位を得てきたのであり、私たちが手本とするものは、大抵の場合、全てがその本源において同じものがあてがわれるようになっている。
メディアをみれば、エンターテイメントが、恋愛、芸能、スポーツが、どの国においても主要な話題として扱われているが、これらのものが一般化したのは、当然に、特定の人々にとって、それが最も理想的な形で、敵を蝕むことが可能だからなのだが、この点を一般的な国民は見抜けない。そこには当然に多数者の専制というものが機能しているのだが、エンターテイメントが多くの人々に好まれるのは、繰り返し、繰り返し、メディアが、いいや、メディアを支配している彼らが、意図的にそれが私たちにとっての関心事であると刷り込もうとしているからである。
彼らが何を目指しているのかは、フランスの歴代の大統領顧問を務めてきた、欧州復興開発銀行の初代総裁で、「知の巨人」というキャッチフレーズを持って優秀な人々に指示されているかのように偽装されているジャック・アタリの言論を読めば一目瞭然である。
彼らは、新世界秩序というものを構想しており、その思想の目指すところは、実際に共産主義であっても、新保守主義であっても、新自由主義であっても、リベラルであっても、変わらないのである。中東に存在する歴史的な街を世界政府の首都として、世界を牛耳ることが、彼らの目的であり、そこに違いは存在しない。
ジャック・アタリがいうように、彼らの思想の根源には実は、「カニバリズムの秩序」というものが存在し、この思想は血を好む。彼らの思想の主要命題である人権思想は、人間の自由や平等を謳いながら、当然、そのアンチテーゼたる強制と不平等、そして暴力を当然に強く引き込むのである。
共産主義、新保守主義、新自由主義、リベラルは、様々な言語的偽装をもって、そこには常に人々を死へと向かわせる暴力と無縁ではいられないのである。欧米社会が生んだ現代思想は、私たち日本人が想像するものとは全く別に、邪悪な価値観を前提としている。そしてこのような思想を、私たち日本人も積極的に受け入れているが、同時に、日本の周辺国である中国や北朝鮮・韓国などは、それ以上にこれらの思想に毒されてしまっている。
我が国においてこれらの邪悪な暴力と対抗しうる考え方は、我が国の伝統的なプラグマティックな慣習からしか導き出すことはできないだろう。残念ながらアカデミックな価値観のほぼすべてが実際は共産主義およびその変種の思想で埋め尽くされている。
まとめ
西欧の本来の保守は、事実上、これらの宗教的あるいは民族的な思想を根源とする政治思想に敵対的ではあったが、しかしながら、西欧の保守思想もまた、現代における新保守主義の台頭を許したように、実際は極めて無防備に過ぎた。エドマンド・バークが彼らの活動に強い警戒心を持っていたことは著作からもうかがえるが、しかしながら、その警戒心は必ずしも十分なものではなかった可能性は小さくない。
とはいえ、例えば田中英道氏がいうような「日本の本来の保守」という議論も、恐らくは、充分に彼らの工作・扇動・洗脳工作に対抗しえない可能性は小さくないと私は思う。
何百年にもわたる共産主義者とその生みの親たる宗教的あるいは民族的思想による世界での諸活動は、フリーメイソンリーやイルミナティのほかに、古くはイエズス会なども関係しているともいわれているが、私たちはいずれにせよ、一つに敵をよく知ること、そして二つに自らがどういった存在なのかをよく知ること、この二つを丹念に繰り返し言及することによって、私たちが向かうべき道筋というのも、見えてくるのではないかと思われる。
さいごの一言
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