私は世間で言われるところの「陰謀論」についてトピックを今後上げていきたいと思っています。

 

陰謀論というのは、大学を中心とした教育機関・学会、あるいはマスメディアにおいて主張されている解説などとは異なる事実が存在し、その事実というのが特定の国家やコミュニティなどが何らかの謀略を企てているというものです。

 

また、陰謀論と呼ばれているものには特定のトピックが存在しています。陰謀論といえば、基本的にはロスチャイルド家やロックフェラー家、更に秘密結社フリーメイソンリーやイルミナティなどによる一連の活動を指して言う場合が常です。

 

陰謀論という概念が指し示す対象が、一般論としての陰謀についての理論を指すのではなく、ロスチャイルド家、ロックフェラー家、フリーメイソンリー、イルミナティ、更にはユダヤ人による陰謀に限定して使用されるということがあります。

 

陰謀論について否定的に論じる場合の多くが、それ以外についての陰謀について否定しているわけではなかったりします。陰謀論に対する批判の多くがこれらの欧米の大手金融業者や秘密結社に対するものです。必ずしも言葉の定義上、陰謀論はこれに限定されるわけではありませんが、実質的に陰謀論といえば大抵の場合これらを指します。

 

一般論として世の中にはスパイや情報機関が存在し、歴史的には古代から戦闘における戦略や政治戦略も含めて、謀略が一切存在しないという議論は、そもそも成り立ちません。人類と陰謀・謀略とは切っても切れない関係のものです。

 

都市国家を含めた国家以外にも現代でいえば企業によるパブリックリレーションズ、企業戦略も、合法のもの、更には場合によっては非合法、あるいはそれに近いグレーゾーンのものも含めて陰謀や謀略と呼べないこともないでしょう。そもそも、これらのものが存在しないという議論には意味がないか、あるいは言葉の定義上の齟齬としての否定でしかないでしょう。

 

従って大抵の場合、陰謀論批判とは一般論としての陰謀を否定しているわけではなく、欧米の大手金融業者や秘密結社についてのものを指して否定しているわけです。この指摘は重要です。

 

現在アメリカでは、現職のトランプ大統領の支持者を中心にこれらの陰謀論について議論されることが多くあります。Qanonと呼ばれるのもこれに該当します。また、一般論としての陰謀論ではなく、これらの一連の陰謀論については古くは18世紀末から存在し、その理論も政治家によるものから、元秘密結社のメンバー、カトリック教徒など様々であり、その論者の常識や世界観を前提として議論されることが多くあります。陰謀論のいくつかのものについての小さくない程度での違和感の中には、実際にその陰謀論を語る側の世界観に対するものが必ずついて回ると思います。

 

例えば、あるキリスト教徒による陰謀論は、ヤハウェ以外の崇拝の対象がすべてサタンであるという前提で議論が進みますが、非キリスト教徒にとっては、それだけで疑わしいものに感じるわけです。また、オカルト研究家などが、これらの陰謀論は論じるときは、科学では否定されていることが、なぜか常識的なものとして議論されている場合もあります。これも科学的前提を重視する人にとっては当然に眉唾物となるわけです。

 

このような感覚から陰謀論に対して否定的に論じられるというのはあり得ないことではないでしょう。しかしながら、論理構造の問題として、情報の部分的な否定は、情報の全体すべてを否定するには至りません。例えば地球中心説(天動説)を信じている人にとって、太陽中心説(地動説)が信じがたいものだったとして、その理屈の一部に論理的齟齬があったとしても、必ずしも太陽中心説が否定しえるわけではありません。もし一部の論理に間違いがあったのであれば、修正されるのはその一部分であり、必ずしも全体であるわけではありません。

 

これは微妙な問題で、修正されるべき一部分があったとして、その一部分のために全体が修正されるべきなのか、されないべきなのかは、場合によってはすぐに答えがでない場合が多くあります。これは実際に陰謀論についても当てはまります。陰謀論は明らかに部分的な誤りを必ず含んでいます。なぜならば、陰謀というのは、人に知られないようにした計略や計画を指しているのであって、人々はその知られないようにしている計略や計画を、推理や推測によって導き出さなければならないわけであり、必ず誤った推論は含まれます。

 

陰謀論には必ず誤りがあるという言い方は確かにできます。推理や推論は条件分岐的にA案、B案、C案など複数の仮説を想定しえるものです。したがって仮にA案が正しければそれ以外のものは必然的に間違っているわけですし、実際にはA案、B案、C案として推理・推測されたものとは別の事実がある場合さえあります。

 

繰り返しますが、陰謀論は必ず部分的な誤りを含んでいるわけです。しかしながら、陰謀論はその全体や核心がすべて間違っているのかといえば、必ずしも部分的な否定を証明できたからといって、全体の核心部分の否定を意味しません。実際に核心部分すらも間違っている場合であっても、その否定を証明できないのは、無いことを証明するという「悪魔の証明」と呼ばれる証明がほぼ不可能なものとして知られています。陰謀論がもし全くの出鱈目であるのであれば、彼らに対して行われている議論の多くは確かに確実に名誉棄損であり、差別であると断定できるものですが、実際のところこれらが出鱈目であることを証明できないばかりか、彼らも真実がいずれにあってもそれらを証明しようとは思わないでしょう。

 

もし陰謀論が事実であるならば、それらを隠し通すのは当然ですし、陰謀が事実でないとしても、悪魔の証明と呼ばれるものを証明しようとすれば、プライバシーの一切を放棄しなければなりません。したがって、いずれにせよ、両者は平行線をたどり続けるわけです。

 

いずれにせよ、そもそも世の中に謀略というものは必ず存在し、必ず何らかのはかりごとというものは当然にあります。これは否定の使用がありません。したがって彼らの計画や計略がどの程度のものなのか、どの程度の活動や慣習が行われているのかといった肯定と否定の問題ではなく、程度の問題に行き着くというのが現実的なところであると私は思います。

 

これは言い換えれば、私はロスチャイルド家やロックフェラー家、フリーメイソンリーやイルミナティの陰謀が、単純にあるか無いかでいえば、あると考えているということを示したいわけです。彼らの陰謀は必ずあります。問題はそれがどこからどこまでが真実なのかという程度問題であるということで、そこの議論はこれからも延々と終わることがなく続くだろうと思っています。そしてこれから私はこれらの議論をおこなっていきたいと考えています。

 


社会・政治問題ランキング

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 陰謀論へ
にほんブログ村