粗にして野だが、卑ではない | テキトー親父NOBYのデイトレ日記みたいな

テキトー親父NOBYのデイトレ日記みたいな

70歳になった親父デイトレーダーの結末は・・・・・・
さてさて、どうなりますことやら・・・・・・

日付が替わって水曜日となった。

遊び疲れを理由にして、少し不調なバイオリズムを立て直さねばいけない。

随分前から、何処かに違和感を感じていたのに、無理なデイトレを繰り返していた。

不自然だと云いながら、止められない毎日の売り買い、負けている時は、一端ひいてみる。

たまたま今日はそんな日になったが、場をみていると、やらねばいけない様なデイトレ依存症みたいな感覚があるのを気付く。ディープなダークサイドに入り込んでは危ないと思う。


デイトレみたいな、と云ってもすでに私の人生の上に存在している以上、今まで同様に戦い、生き抜いていかねばならない。


こういう時に誰かに相談した事は、ない。


悩む、考える、苦しむは自分の仕事、人に相談する時は確認作業になる。


壁にぶち当たる、逃げてもいい、どんどん逃げる、とことん逃げる、ところが地球は丸い、だから、結局元の位置に戻る。

そこで、はたと気がつく、逃げてる間に考えた、何だ自分でやるしかないのかと。


流れの中で生きて行く、という言葉が好きだ。

自分の身の処し方を指す言葉だ。


人生はしょせん成る様にしかならない、などというレベルの低い言葉ではない。

生きて行くのに、私心がなく、自己中心的でない、清い美しい身の処し方の話。

私にまだ到底及ばぬ境地だと思う。

なにしろこれまでの生き様は、その言葉はあこがれの生き様だった。


男というものは、いったん走り出したら、どんなことがあっても振り返るものではない、と信じてきた。


どんな苦境にあっても、人生のすべてを面白いと感じる好奇心を持ち、それを楽しみ眺めるゆとりを持つ限り、人は必ず再起できるものなのだ、と信じてきた。


なんだかんだと立派な言葉を語ってる様だが、これは私が尊敬する作家が本の中で語った言葉だ。

それを何とか自分の中で消化し自分の言葉になる様に努力した。

本当に苦しく辛抱の時代に巡り合え、私を支えてくれた言葉の数々がある。


タイトルをみて、この文章を読んでいただき、その作家が誰かが分かる方が多くみえるのなら、そんな嬉しいことはない。


ポンコツでもテキトー親父でもいい、

ただし断じて、

粗にして野だが、卑ではない