ところが困ったことに日本精神には聖徳太子が日本人に認識させた「和」がある。「和」は日本民族の特徴であり世界に誇る善なる性であるが、利口な人ほどこれを誤用し悪用する。性悪説を常用する人々に向かって、「和の精神」を公開するのである。これでは悪者の思うがままだ。嘘と捏造の歴史を基礎として諸案件を論ずれば、どうしても嘘と捏造が前提となる。だから1965年の日韓請求権協定も、不可解な政府間の約定となる。政府の見解が間違っていたのは基本的にその国の事情であり、相手国に賠償を迫ったり謝罪を強要したりするものではない。日本国民のように3年3か月の悪夢を経験し、国際的信用を失墜させられても立民の過去の責任を追求しない。

 その責任を「肩代わり」して負の遺産を解消し、世界に謝罪しているのは自民党である。立民は過去の罪を何処吹く風とばかりに、永田町で移民党の失敗を咎めている。自民党も「肩代わり」はしない方が良い。まあ、与野党の如く理念哲学が混在している自民党であるが、せめて軍事、経済安全保障と外交だけでも統一見解を持つべきだ。そして韓国が当然のように謳い、日本政界とメディアが事も無げに使用する「肩代わり」に反発しなくてはならない。尹錫悦が現在、日本に対して融和的に見えても、「肩代わり」を悪意的に使用しているのやも知れぬ。それに5年任期で再任の無い韓国大統領は、「永久恨」を遺伝子に組み込んだ朝鮮族の民族性に頤使されるのだ。細川昌彦の懸念も痛いほど分かる。経産省が輸出管理と規制を取り払おうとしているのも対支那、北朝鮮への忖度であるのか。自省の懐具合だけが大切であり、国家国民の保護の為のホワイト国に関する防衛観念が無いのか。

※明日に続く