蝉や蝶のように生きる時間が短くても、人生百年と言われる人間であっても、悠久の時の流れに対比すればほんの一瞬である。それを真摯に受け止め、動物的本能に近い煩悩を調整して、何が出来るかを自ら問わねばならない。それが諦観である。本来、この諦観を教え、不安と恐怖を取り除くのが宗教のあるべき姿だ。神仏を尊び、神仏に頼らず、とは剣豪宮本武蔵の言葉だが、擬人化された神仏に御利益を頼んではならない。現在の環境で、そして自分の能力で何が出来るのか。もし、夢が破れ希望が失われても決して挫けてはならない。それが自身の運命であり、またやり直せと叱咤する気概を諦観と呼ぶ。繰り返すが決して「あきらめ」ではない。限られた命のある間は何らかの努力を行い、能力の範囲内で全力を尽くすのが人間である。世界の宗教勢力は教団の信徒確保や布施、寄進に血道を挙げ、政治に加担して利権を求めているがこれではいけない。

 諦観とは必ず訪れる死を覚悟して生きる事である。不老不死を願う支那の皇帝が、それを可能にする道教を信奉したこともある。一方で煩悩の一つである食欲を満たす為に、糸で吊り下げた銀の球を胃に入れ、美食した後に銀球を引き出して胃を空にし、再び食べ始めたと言う。不可避である老いと死を阻止しようとしながらも、煩悩を満喫しようとしたのだ。後宮3千人と言われる側妾を持ったのは秦の始皇帝であったが、ロバに乗って妾宅を周った始皇帝を自宅に引き入れようとして、ロバの好物を玄関先に用意したのが「盛り塩」の起源である。また、3千人の暇を持て余した側妾たちが無聊(ぶりょう)を慰める為に考案したのが麻雀だ。贅の限りを尽くし不老不死の薬を世界に求めた始皇帝は死んだ。死は人間の宿命なのである。宗教の聖職たちも煩悩を持つ人間であり、僕たち草莽も同じくいずれ死ぬ運命にある。せめて聖職者たちは宗教の意義を再認識し布施、寄進や宗勢拡大飲みに執着せず、政治介入して利権を追求することなく諦観を信者たちに説明して戴きたいものだ。梅雨がやっと明けて蝉が鳴き始めた。