4世紀中頃から任那(みまな)と加耶(かや)諸国は大和朝廷の支配する日本固有の領土であった。その頃の朝鮮半島は高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国鼎立(ていりつ)の時代であり その最南部加羅地域は大和朝廷の直轄地だったのだ。しかし 大和朝廷の混乱に乗じた百済、新羅の勢力が 任那、加耶地域を盗み取ったまま現在に至っている。


 当時 百済は日本に友好的な強国であり 高句麗と共に新羅を圧迫していた。新羅は正に亡国寸前の状態であり いずれは高句麗と百済に攻め亡ぼされる運命にあったのである。しかし 百済、高句麗にとっては不運なことに金春秋という六韜(りくとう)を学んだ天才的指導者が出現し新羅を救った。金春秋は日本を訪れて外交的手腕を発揮し 大海人(おおあまの)皇子に接近して友誼(ゆうぎ)を結んだり 唐に渡って三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)を繰り返して属国になることを誓ったようである。当時の大和朝廷は天智天皇が主(あるじ)であり 百済を属国としていたのだから 金春秋は百済を排し 新羅を援助してくれるよう大海人皇子(後の天武天皇)に懇願したのであろう。そして唐の属国となり朝鮮文化の全てを切り捨てた金春秋は 姓名さえも古来のそれを停止(ちょうじ)して唐文化である一字姓(現在の金、白、趙など)を取り入れたようだ。唐、新羅連合軍に敗れた百済が残存勢力をまとめてゲリラ戦を闘った指揮官鬼室福信(きしつふくしん)のように長い姓を持っていた朝鮮民族の姓は この時より唐名を名乗って唐に恭順を誓うようになったのである。


 この唐、新羅連合軍に対し 任那、加耶諸国の奪還と百済救済の為に軍を派遣したのが天智天皇である。しかし 鬼室福信との連携も悪く、戦術が効を奏することもなかった為 日本軍は白村江(はくすきのえ)において大敗を喫する。663年のことであった。この時点で朝鮮半島は新羅の統治下に入るのだが それは中華帝国である唐の属国となることを意味した。そして その植民地的属国状態は日清戦争後に締結された明治28年(1895)の下関条約において 日本が清国に対し「朝鮮の独立」を認めさせるまで続くのである。本来であれば 金春秋以来 1200年以上支那に支配された軛(くびき)から解放した礼として 固有の領土である任那、加耶諸国を返してもらうのが一般的であるが 大和民族はどこかの国と違い「人の弱みにつけこむ」ような見苦しき真似はしない。それが大和民族の美学である。




※ 明日に続く


ヒゲオヤジのぼやき-加耶