子どもたちが助けた猫 第3幕 -15ページ目

子どもたちが助けた猫 第3幕

子どもたちが助けた猫、優(2011年11月他界)とあいちゃん(2013年5月他界)と
ボウズの弟、一玖とそして、ののちゃんと裕次郎の毎日。

$子どもたちが助けた猫 第3幕




今日、あいちゃんが、17才の誕生日を迎えた。
あまり好きな表現ではないけれど、
まあ、敢えて言えば、人間では85~90才ぐらい。
最近、痴呆になっているので、
夜、すっごい泣くし、トイレもあっちこっちでするけれど、
「生きているだけで、もうけもの」というスローガンのもと、
わが家はもろもろ世話をしている。

で、17才を記念して、改めて、犬と猫への愛情について考えてみた。
(これは、前にもここで書いたかもしれないけど)

犬と猫と両方飼っていると、同じかわいらしさでも、種類が違う。
で、どう違うのかと考えてみると、
それは「犬は(自分の)子どもに対する愛情で、猫は孫のかわいさ」だということ。
犬はしつけなどもしなければいけない。
なので、時には、厳しく接することもある。
どこかで、責任を感じている部分もある。
それ故に、犬に対する愛情は、自分の子どもへ向けたものと
酷似しているような気がした。
では、猫に対するかわいらしさは、どうか?と考えみると、
それは、無条件というか、存在そのものが「ただ、かわいい」だけ。
それは、おじいちゃんやおばあちゃんが
孫へ向ける表現だったり、愛情と同じだ。

また、実際に自分が猫を飼ってみて驚いたのは、
猫を好きな人がとても多いこと。
で、その人たちの猫への愛情というか反応は、
たとえば、イトーヨーカドーもしくはイオンの売り場とかで、
自分の孫と同じ年頃の赤ちゃんとか
幼児と出会ったときに「かわいい~」と気軽に反応してしまう
おばあちゃんのように、すべての猫がかわいいと思っている。
で、犬好きの人たちは、同じように犬のことを好きなのだが、
どこかで『自分の家の犬』と比較しながら
他の犬に接している…つまり、それは、親が自分の子どもと
他の子どもをどこかで意識している部分と似ている。

それは、犬と猫の習性も要因になっているかもしれない。
犬は人間のことをパートナーであったり、
どこかで保護者的な観点でみている。
(まあ、直接、話をしたわけではないので、これも
人間目線の話だが)
つまり、俗に言う「飼い主になつく」というやつ。
それは、動物としてスポイルされた人間の子どもが
保護者に対して求めるものと似ている。
そして、人はそのことを前提に他の犬と対峙するから、
人間が他人の子どもに向ける気持ちと同じで、
「かわいいんだけど、保護者(つまり自分以外の人間に)守られている存在」として、
心のどこかで距離を置いて見ている。
でも、猫や孫は違う。
他の人に守られていようがいまいが関係なくかわいい。
何故かというと、猫そのものが、「他者に依存しない」と
僕たちが認識しているからだ。
なので、孫と自分の間に保護者がいようがいまいが関係がない。
その存在そのものがかわいいのだから。

で、あいちゃんの誕生日にこんなことを
長々と書いてしまったのは、
あいちゃんの夜鳴きで起こされたせいかもしれない。






昨日、11月14日、優ちゃんは骨となり、本当に逝ってしまった。

そして、今日、仕事で街を歩いていたら、

昨日、11月14日が「二の酉」だったということを知った。

そして、また、涙が溢れていた。

知らない人が見たら、あぶないオジサンだ。

どうして、涙が出てきたかというと、

優ちゃんと出会った、つまり、子どもたちに連れてこられたのが、

3年前の11月17日。

ちょうど、わが家では「二の酉」に行こうとしたときだった。

日付は違うけど、「二の酉」に現れて、3年後の「二の酉」に去っていった。

「おまえ(優)は、酉の市の回し者か!」と

自分の心の中でツッコミを入れてみたが、

余計、寂しくなった。

なんだろうな、この3年。

もちろん、答えなどないけれど、

無理矢理にでも意味を見つけないと、

やってられないよ。




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久しぶりの投稿が、こんなにも悲しいことを
書かなければいけないなんて…。

このブログを始めたキッカケで、タイトルにもなっている
子どもたちが助けた猫、優が、今朝、なんの前触れもなく、
突然、息を引き取りました。

朝ご飯もちゃんと食べて、いつもと変わらなかったのに…。
もうすぐ3年目だったのに…。
さよならも、ありがとうも、言えなかった…。


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