​この話は
中途障がいになった僕の20年の歩みです。


僕は全盲で車いす。


僕が栃木に帰る2ヶ月前の3月末


両親が定年を迎えた。それと同時に父親が


父親の実家の敷地内に新しい家を建てた。


僕はその新しい家に帰り、そこが実家になった。


国立職業リハビリセンターにいた頃


全盲の僕の障害年金の管理を母親がしていた。


国立職業リハビリセンターでは


僕の場合、入所にかかるお金はないので


お金を使うことがほとんどない。


自分のおこづかいがあれば十分やっていける。


僕はお金が無くなると、母親に頼んで


1万円をそのつど振り込んでもらっていた。


使っても毎月3万円程度だった。


実家に戻った僕は


自分でお金の管理をできるようにしようと


銀行のキャッシュカードを


母親から返してもらった。


残高を確認しようと銀行に行ったがおかしい。


僕の計算では障害年金は80〜90万円は


残っているはずだった。


でも残っていたのは数万円・・・。


5万円にも満たなかった。


家に帰った僕は母親に確認すると


僕に色々お金がかかったと言われた。


僕は納得出来なかったが


この母親に何を言っても意味がない。


この頃から僕の障害年金は当てにされていたのだ。


僕にまつわるお金に関しては他にも色々あった。


僕が障がいを持ったときに僕には


かなりの保険金がおりていた。


半分は僕の医療費に当てられたが


残りの半分は障がいを持った僕のために


両親がいなくなってからのことを考えて


残してあるはずだった。


でも今となってはそのお金は存在しない。


僕のブログ『実は(実話)の話・・・』に


繋がっているのだった。


実家に戻ってから2ヶ月後


僕は障がい者雇用の集団面接に参加した。


そこで僕は2社、面接を受けた。


1社目は、作業内容から考えても全盲だと


出来る仕事がないと言われた。


2社目での面接で言われたことが僕には辛かった。


「あ〜障がいがどちらか一つだったらねぇ〜。仕事はあったんだけど」


悪気がないのはわかってる。


それでも辛かった。


僕自身、障がいが全盲か肢体不自由の


どちらかだったらとずっと思っていたからだ。


全盲だけなら、白杖を使って移動できる。


肢体不自由だけなら、車いすを漕いで


自分で移動できる。


人の手を借りることが全盲で車いすより


少ないのも事実だ。


僕は家に帰ってからも、ネットをあさりまくって


僕でも働けるところはないか探した。


何日も何日も・・・。


そして、心が折れた。


もういいや・・・と。


国立職業リハビリセンターでパソコンの


スキルもついた。炊事、洗濯、掃除など


出来るようにもなった。


でもそれを活かせる場所がない。


社会にとっても家族にとっても


全盲で車いすの僕は戦力外だった。



つづく