まひろ=紫式部が「書く」ことを選んだ原点 | NobunagAのブログ

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今回、紫式部が主人公ということで

放送前から


「どうやって一年間、

物語を作るんだ?

面白くなるのか?」


という批判もあったのだが、

ここまでのところ

ドラマのオリジナルエピソードを

うまく史上の逸話とも

絡めながら描いていると思う。


また、「戦争」はないが

「争い」はある。


貴族たちの権力闘争劇は

藤原道長を通して

しっかり描かれており、

見どころも多い。


が、とかく主人公の紫式部…


つまりまひろに関しては

どうしてもいわゆる


「史実」


としてわかっていることは少なく、


「なぜ源氏物語を書いたのか」


などは本人がそれを

書き残していない以上は

想像するしかない。


が、その想像することこそ

ドラマ作りの楽しさだろうし

脚本家の大石静さんが


「紫式部が源氏物語を書いた理由」


をどのように表現するかは

物語としても重要な

ファクターになると思っていた。


今回、その一端が描かれていた。


それが「蜻蛉日記」の作者である

寧子とまひろとの出会いだ。


寧子はなにせ兼家という、

まひろにとっては愛した男、

道長の父の妾…


おまけにまひろから見た兼家は

自分の父である為時への

圧力に対して

直談判に行った挙げ句

コテンパンにされている相手だ。


しかし「蜻蛉日記」は

まひろが子供の頃から、

愛読してきた「作品」でもあった。


当時は「日記」と言っても

ひそかに書くものではなく

皆に読まれるものでもあった。


今でいえばこうしたネットや

SNSに書き残している日記の

感覚に近い。


まひろは「リアル兼家」に

対しては怖い人、

という印象だったであろう。


でもその兼家を愛し、

愛された妾である

蜻蛉日記の作者とは

どんな人なのだろうかと

思っていたはずだ。


その作者である寧子と

偶然にも出会い、

その恋愛観や若き日の

兼家との話を聞く。


寧子から閉め出しを食らってる

若い兼家なんかはリアルの

年老いた老獪な兼家からは

想像できない姿だが、

誰にでもそうした

人間らしい一面はあるものだ。


寧子は単純に自分のことを

書き残したかったのではなく

兼家、という人を後世に

伝えたかった。


でも、その原動力になったのは

やはり寂しかったからではないか、

と語っている。


書くことによって、

寧子自身の抱いていた

寂しさや悲しさが

癒やされていた。


そのうえで寧子は


「嫡妻にしてくれる人を

選びなさい、

妾はつらいものだ」


と、まひろとさわという

若い女性にアドバイスをしている。


それを聞いたまひろは、

やはり道長のことを考えてしまう。


妾になってくれ、

という申し出は道長なりに

真剣に考えた結論だったはずだ。


まひろ自身がまさか嫡妻に

なる予定なのが倫子だとは

知らなければ、

妾でもいいとも考えていた。


しかし本音をいえば


「妾になるのは嫌」


というのが正直な気持ちだった。


妾でもいい、というのは

妥協したうえでの考えであり

本当は誰もが好きな人を

独占していたい。


それはきっと、

妾としても蜻蛉日記の

作者としても有名であった

寧子ですらも、

抱いていた思いなのだ。


まひろの中にある

いつまでも消えない道長への恋、

結ばれなかったことへの寂しさ…


そういったものが、


「書く」


ということの原動力へと

なっていくのだとすれば、

史実では否定されがちな


「幼少の頃から道長と知り合いで

恋仲であった」


というドラマならではの設定を

あえて盛り込んだことにも

納得がいく。


相手が兼家なのか道長なのか、

その作品が日記なのか、

物語なのかという違いであり


「書くことで癒やされたい」


という寧子とまひろの思いは

変わりない。


ひとりの後のアーティストが、

あこがれのアーティストと出会い

才能に目覚めるきっかけを得た、

というのが今回の話だろう。



源氏物語というのは

それこそ入り組んだ

恋の物語なのだが

そういうものを書くほどに

まひろの心の中というのは

複雑なものであった、

ともいえるだろう。



もちろん、史実としての

紫式部とはまた違うから


「本物の紫式部、源氏物語」


に対する解釈とは、

違うものにもなるだろうが

おそらくは史実の

紫式部にしても、

書くことの原動力となった

何か、はあったはずである。


本作はそれを道長との悲恋、

そして蜻蛉日記の作者との

出会いを原点とした。



これがまた対比として

面白いのは清少納言、

ききょうの存在だ。


寧子やまひろにとっての

何かを書くこと、というのは

ある種のネガティブな感情を

癒やすためでもあるのだが…


ききょうは夫も捨て、

息子までも捨てて…


定子、という自分が

仕えるにたる素晴らしい

女性と出会っている。


ウイカさんの演技も

非常に良かったのだが


「定子に一目惚れ」


状態なのだ。


その清少納言は


「枕草紙」


という作品を書き残しているが、

清少納言が何かを書くことへの

原動力というのは、

間違いなく定子への愛という

ポジティブな感情であろう…


なにせ「史実」としての

清少納言は定子没後には

気落ちして宮中から去り、

その後の様子すらも

わからないのだ…


(実在してなかった説もあるが

紫式部日記の中に

彼女の記述はあるので

ほぼ実在してたとは思うが…)



よく、紫式部はTwitter(X)民で

清少納言はインスタグラム民、

とも言われている。


俗に言う紫式部は陰キャのヲタで

清少納言は陽キャのヲタ、

みたいなイメージだ。


紫式部の書く話は

ドロドロしていて

入り組んでいる。


清少納言は毒舌だけど

カラッとしている感じなので

わかりやすい。



何かを書こう、と

思った動機がそれぞれに

ネガティブなものなのか

ポジティブなものなのかで

違いがあったのかなとは思う。


そもそも紫式部は

物語、つまりフィクションを

書いているんだが、

清少納言はエッセイのようなもの、

つまりノンフィクションなのだから

その違いもあるのだけれど。



清少納言…ききょうに関しては

せっかくのドラマなのだから

定子が亡くなったあとも

まひろとの交流はあった、と

描くとは思うがそこは

完全にオリジナルになるので

興味深いところだ。



ちなみに


「書いてスッキリする人」


といえば我らが黒光る君、

藤原実資という大作家もいるw


小右記そのものは、

もちろん本当はそこまで

愚痴日記ではないけれど

人物評みたいな面もあるから


「こんな嫌なことがあった!

けしからん!」


は書いてあるw


あの有名な道長による


「望月の欠けたることも

なしと思えば」


についても実資が


「調子に乗りまくっている!

こんな歌を詠むなど異常!

異常すぎる!

異常中の異常!」


と思ったから書き残して

現代に伝わった、といえば

まぁ、そうだろう。



まひろと、ききょう…


そして実資様の作家としての

今後に期待したい…!!