あの回想シーンがなかったら… | NobunagAのブログ

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家庭菜園、ゲーム、アイドルなど趣味の話題や、子育て、介護関係のことをつらつらと書いています。

家康がこれまで溜めに溜めてきた


「鯉の話」


へと場面が転換していき、

家康がもっとも楽しかったで

あろう皆が生きていた

時代へとその魂が飛んでいく。


スピンオフでやればいい、

という意見もわかるのだが

細かいところを見ると、

あの時代には持っていないはずの

道具を家臣が持っていたりして

あれは単なる回想、過去、

なのではなくて、

半分はあの世そのものとも

いえるシーンになっている。


つまりはあれは死の前の

走馬灯なのかもしれないし、

そうではなくもう、

肉体的には死んでしまっている、

そんな行き着いた先が

あれなのかもしれない。



あれを描かずに終わりにする、

というパターンももしかしたら

あったのかもしれない。


要するに家康が倒れるところや、

死因を具体的に描く、

といった感じで。



が、茶々の死に様があまりに

強烈かつ華やかで、

威厳に満ちたものだったので…


敗者であるはずなのに、

それを感じさせない

孤高の最期というか。



その一方で家康は

だだっ広い部屋の中で

もはや正信が声をかけても

かろうじて手を握り返す、

くらいしかできなく

なってしまっていた。


民は狸親父だ、いや神の君だと

噂をしているし、

そんな家康を恐れて若い家臣も

近づくことはない。


そういう中で死んでいく。


ただひたすらに孤独である。



自ら命を散らしていった茶々は


「正々堂々と戦うこともせず

万事長きものに巻かれ、

人目ばかりを気にし、

陰でのみ嫉み、あざける。

やさしくて、卑屈な、

かよわき者の国」


とまるで家康がこれから築く世、

つまり我々のいる現代への

呪いをかけるように

死んでいった。


茶々にとっては、

いくさの勝敗そのものよりも


「どう生きたか」


「生ききったか」


のほうが重要なのであって、

さすが信長の血を引く女、

ともいえるだろう。


あそこで死ぬこと自体はもう


「是非に及ばず」


ということなのだ。



もしもあのまま家康が、

孤独に苛まれて

明るい家臣団とのシーンもなく

救われることなく死んでいったら

精神的には茶々の

完全な勝利になってしまう。



家康の目的は何だったのか?


瀬名が夢見た慈愛の国?


それもあるとは思うけど、


「厭離穢土欣求浄土」


穢れたこの世に浄土を。


それこそが目的だったはずだ。



あの夢か現かわからない中で、

瀬名と家康がながめる庭の

はるか彼方に見えるのは、

東京タワーやビルが建つ、

現代の日本。


殺し合い、奪い合うことのない世界。



確かに茶々の言うように、

今のSNSを見たらわかるが

他人の目を気にして、

人の陰口を書き込んだり

都合が悪くなると逃げ出す

卑屈でかよわき者の国、

にはなっているとも思う。


でもその一方で、

多くの人たちが食べる物に

困ることもなく、

愛する人と結ばれて

安心して子供を育てられる

そんな国になっていること。


これも事実である。


むろん、どこにでも

それすらも出来ない立場の人、

追い詰められている人も

たくさんいるわけだし

世界に目を向ければ

今も戦争は起こっている。


この世界は「浄土」に

至っているのかどうかは

わからない。



わからないこそ、

本作は茶々の勝利であっては

いけないけれども、

家康だけの絶対的な勝利だとも

言い切れない、

一抹の切なさと未来に生きる

我々へとその希望を託す

終わり方をしたのだろう。



茶々の最後はおそらく市に


「茶々はようやりました」


と報告して褒めて

もらいたかったのだと思う。



一方の死の床の家康の目の前に、

瀬名や信康が現れて

あなたはなかなか出来ないことを

やり遂げましたよ、

と褒めてもらえたのは

あれこそが家康の本当に

求めていた気持ちだったのだろう。


家康と茶々はまったく

違う生き方をしているようで

どこか似てもいた。



襖の中から瀬名と信康は現れたが、

もしかしたらあれは、

木箱にしまい込んだ

木彫りの白兎に宿って

隠れていた、


「弱い心=平和な時代の象徴」


としての瀬名と信康かもしれない。



あれを封印してしまった頃から、

物語はどんどん重苦しくなり

家康から笑顔は消えていった。


いくさは強くなったが、

家康自身が言うように


「人殺しが上手くなった」


だけともいえる。


本当は壊すことより

作ることが好きだった家康。


そんな家康の血は、

絵を描くことが好きな

家光に受け継がれている。


悲しいかな、

その家光の姉である

千姫も絵を描くことが

好きだったわけだが…



少しだけ救いのある

補足をするとすれば

千姫を演じた原菜乃華さんは

千姫はあの瞬間は、

家康のことを恨んでいたが

ずっと恨み続けた、

というわけではないと思う、

と心境を語っている。



史実の千姫は平八郎の孫、

忠刻に嫁いで子供を成している。


が、二人共早くに亡くなってしまうが

千姫は江戸に戻りその後は

家光の息子を養子にしたり

大奥にも発言権を持つようになり

平和には過ごした。


性格も温和で皆に親しまれていた、

ともされる。


江戸時代に千姫が、

夜な夜な男を招き入れていた、

などの俗説が語られたが

それらは嘘である。



浄土、というものが

どういうものであるのかは

わからないけれども、

人は皆、与えられた中で

懸命に生きている。


そういう世界の中で

何気ない日々を過ごせること。


無闇に命が奪われないこと。


その当たり前のことこそが、

浄土だったのかもしれない。



あの頃の信長は怖い人では

あったけれども、

まだまだ天下に名乗りを

あげていく途中の信長。


秀吉は生意気で扱いにくいが、

晩年、彼自身が口にしていたように

家康のことは好きでいてくれた。


そして、大切な家臣団。


愛する妻と息子。


そういう連中に囲まれて

過ごしていた日々。



そんな時間こそが、

家康にとっては

かけがえのないもの

だったのだと思う。


いくさに明け暮れる中で

そうしたものを少しずつ、

削り取られるように

失っていった家康の人生。


厭離穢土欣求浄土


をこの世に成すために、

己の大切なものを

なくし人柱になってくれた、

それが徳川家康。



だからこそ最後の最後に、

もう一度楽しかった日々へと

家康自身は帰っていく。



人の世も光と影である。


家康が目指したものは

達成されたとも思うけれども

茶々が指摘したように

その行き着く先は、

見方を変えれば弱き者の国。



自分が本作に対して、

いつも以上に思い入れが

あったのは以前から

書いてきたように、

亡くなった母にこそ

松潤の家康を観てほしかった、

という思いが大きい。


母と過ごしていたときは、

その存在が当たり前で

ありがたさに気づくこともなく

今更ながらに、

その当たり前であるということが

どれほど大切なことだったのか

気づく自分がいる。



家康にとっての、


「当たり前だったはずの日々」


を最終回に描いてくれたことには

大きな意味があると思うし、

俺自身が死ぬ時にはせめて

その当たり前に囲まれて

死にたいなとは思う。



大河ドラマとしても、

昨年に引き続き異例の

最終回だったと思うが、

胸に残る物語となった。