善児 | NobunagAのブログ

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善児。

架空のキャラクターでありながら、
鎌倉の闇を象徴する存在として
視聴者の心をがっちりと
掴んできた男…

オープニングのクレジットに
名前が出ただけで必ず
誰かが死ぬ…

だからこそ誰もが
善児の登場を恐れていたものだが
その彼の最期がこんなに
悲しいものになるとは
最初、想像もつかなかった。


一幡に情が移ってしまったことで
善児は頼家によって
深手を負わされる。

その結末として、
弟子でもあり娘のような
存在だったトウにより
本当の親の仇として、
とどめを刺される。



善児を殺したのは、
頼家でありトウなのだが、
根本的な原因となったのは
悲しいことだが
本当は泰時である。

小四郎の当初の命令通り、
比企館を襲撃した際、
速やかに一幡の命を奪えば
善児の情が一幡に移ることは
なかった。

泰時は一幡の命を救ったようで、
実際にはそれを危惧した
小四郎によって改めて
一幡は殺されている。

そのことで胸を痛めた善児は
頼家の前であり得ない隙を
見せてしまった。

そして善児は死ぬことになった。

泰時自身は気づいていないが、
こうして彼の甘さ、優しさは
一幡を助けることもできず
善児が命を落とすきっかけを
作っただけなのである。



泰時は間違っていたのか?



それは決して違うだろう。

誰もが今の小四郎に
違和感を覚えているように、
また、運慶からも
指摘されたように
小四郎のほうが悪である。

万が一を警戒するために
簡単に人の命を奪う。

普通の感覚からいえば
おかしなことだ。

はるか昔、息子を殺された
武田信義もこの鎌倉方の
非情すぎるやり方について、
お前たちは狂っている、と
罵った。

しかし、現実には頼朝の、
小四郎の非情さによって
誰かは殺されても
それ以上の被害は防がれてきた。

それが彼らの見ている
過酷な現実なのであって

「他に道はない」

からこそ頼朝も小四郎も
悪になるしかないのだから。



善児はそんな鎌倉の悪を
一身に背負ってきた男だった。

梶原景時が小四郎に残した、
ひとつの刃。

いわば道具である。


人を殺すために存在し、
そのことに罪悪感を
覚えることもなく、
ただ主の命に従う。

それが善児だ。

そこには自分の判断などないし、
勢力も関係ない。

ただ、自分がそのときに
仕えている者に従い、
主にとって不要なものを
この世から葬る。



では善児の死は、
不幸だったのだろうか?

泰時に出会ったことは
善児にとって、
命を落とすきっかけでしか
なかったのだろうか?

そうではないだろう。

一幡の処遇を泰時に委ねたとき、
善児は殺したくなさそうに
泰時を見つめていた。

トウについてもそうだ。

範頼暗殺の巻き添えに、
目撃者である農民たちを
容赦なく殺した。

が、そこにいた幼いトウを
善児は殺さずに育てた。

トウの中にあった
恨みは消すことはできず
最期はそのトウに、
深々ととどめを刺された。

が、善児はそれを
当然のこととして
トウの刃を受け入れていた。

トウにも葛藤はあった。

涙が物語っている。

復讐を達成したという
喜びの涙だけではないのだ。

善児が死んでやることで
トウの背負った恨みだけは
取り除いてやることができる。

この瞬間、善児は
暗殺のための道具でなく
人として死ぬことができた。

トウに出会い、
そして一幡に出会ったことで
善児は人間になった。

人間になったことで
弱さを得てしまったけれど、
決して不幸な死に方では
なかったのだ。

小四郎のように、
成熟した大人であれば
善児が兄を殺したことについて、
責めることはなく
目を瞑ってくれる。

でも、子供はそうではない。

幼い心に刻まれた
トウの背負った傷は
善児が死んでやることで
初めて昇華される。

自分が曲がりなりにも
親代わりとして育てた
トウにしてやれることは、
トウに殺されてあげること。

修善寺はかつて、
善児が範頼とともに
トウの両親を殺した
因縁の地だ。


道具のように生きた男は、
人間として、親として
死ぬことができた。


一幡は、そして泰時は
そのきっかけになって
くれたのかもしれない。


頼家にとっても、
そうだったかもしれない。

頼家は史実では、
北条の手によって
入浴中に襲われ、
首を絞められて
局部を切り取られる
という酷い殺され方をしている。

しかし、ドラマにおいては
北条の者とは会わない、と
政子の面会すら拒んでいたのに
泰時のことは許していた。

そこには幼なじみとしての
万寿と金剛の姿があった。

かつて政子の館に
頼家の配下が詰めかけたとき
仁田忠常の後ろで、
震えながら刀を構えていた泰時は、
今回は頼家を守ろうと
命がけで立ちふさがった。

さすがに善児とトウが相手では、
防ぐことはできなかったが…

頼家は善児相手に、
一歩も引かぬ戦いをし
一幡の名を見てひるんだ
善児を斬った。

一幡の本当の親は、頼家。

その意味では頼家は
一幡の親として、
恥ずかしくない戦いを
してみせたのだ。


仮初めの親であった
善児は一幡からも、
トウからも見放された、
とも取れるかもしれないが
そうではないだろう。

これは全て善児が、
人間として命を全うする
宿命だったと思う。


善児というキャラクターが
存在していたからこそ、
頼家も尊厳のある最期を
迎えることが出来た。


そこを紡いだのは、
紛れもなくかつての小四郎と
姿が重なる優しい泰時。

今回、泰時は結局は
誰も救えていない。

けれども観ている我々は
泰時が人として
間違っているとは
思えないし、
そんな若者にやがては
幕府のバトンは渡っていく。


善児のようなものが、
必要ではない時代を作ること。

同じ悲劇を止めること。

それは小四郎の中にある
本当の願いとも一致するものだ。



実際のところ、
壮大な歴史という流れの中では
鎌倉幕府もやがて滅び、
その後の室町幕府も保たず
やがては戦国時代に突入する。

本当の平和というのは、
家康の時代を待たねばならない。

しかしその中で、
懸命に生きた人達には
それぞれの必死な思いが
確かに存在していた。



善児は闇を象徴し、
そして光を招くために
必要なキャラクターで
あったと思う。

大河ドラマに架空のキャラクターが
出演することについては、
毎回、賛否はあるのだが
善児の描き方は秀逸だった。

やってきたことの
インパクトの強さから
誰の心にも刻まれているが、
出演回数がそう多かったわけでも
なかったりする。


架空の存在であるがゆえ、
主張しすぎず、
それでいてこの作品のテーマを
見事に体現したのが善児である。

現実には存在していないから
不可能なことなのであるが、
つい善児の墓に手を合わせたい、
という気にさせられてしまう。




善児という存在は
いなかったとしても、
彼のように名もなき
多くの人達の思いが
歴史を紡いでいったことは
忘れてはならないだろう。