
需要があるのかないのか
信玄公の生涯を振り返る
シリーズその2です。
さて、信濃を制圧したは良いが
越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に
目をつけられた、
武田信玄こと晴信。
1553年、さっそく
景虎が信濃へと
攻め込んできた。
信玄32歳、謙信は23歳。
20代の大半を信濃の
魑魅魍魎のような豪族との
しのぎ合いで鍛えられた
晴信にとっては、
謙信などまだひよっこだったはず。
が、それが大誤算に…
皆さんよくご存知の
川中島の戦いの幕開けだが
実はこの戦いはなんと
11年、計5回行われている。
つまり晴信は貴重な
壮年の10年以上を
ここに費やすのだから
事実上、武田家による
天下統一を阻んだのは
長尾景虎と言っても
過言ではないだろう。
ともあれ第1回目の戦いでは
お互いに城を取って取られて、
決着には至らなかった。
あえて決戦に持ち込むことは
避けたというから、
晴信の実感からしても
ヤベエ奴が出てきた、
とは感じたことだろう。
こうした状況にあり、
翌年、晴信は駿河の今川家、
そして相模の北条家との間で
甲相駿三国同盟を結ぶ。
今川義元の娘を
晴信の息子・義信の妻に。
そして北条氏康の娘を
義元の息子・氏真の妻に。
晴信の娘を
北条氏康の息子・氏政の妻に。
甲斐信濃の覇者・武田、
駿河遠江の雄・今川、
そして関東に手を伸ばす北条。
いずれも強国である三国が
同盟を結ぶことは、
近隣諸国にとっては
大きな脅威となったことだろう。
そして晴信は対景虎戦に
集中できることとなった。
翌、1555年には早くも
2回目の川中島の戦いが
勃発する。
しかしこのときは、
対陣200日、お互いに
大きな動きはなく
にらみ合いとなった。
それにしても、
200日である…
兵士たちにも酷だったろう。
どちらかが退かなければ
お互いに退かないという
意地の張り合いのようだ…
このときはさすがに
今川が仲裁に入り、
ようやく双方が陣を引いた。
2年後の1557年、
晴信は長尾方の城を
調略で落とし、
これに怒った景虎が
再び出陣する。
しかしこのときも
晴信は決戦を避け、
決着には至らなかった。
この武田、長尾の争いを
危惧した将軍・足利義輝は
和睦するように勧める。
幕府を敬服している景虎は
それを受け入れたが、
晴信のほうは信濃守護に
任じてくれるならば、
と条件をつけることで
承諾した。
このあたりは晴信の
政治家としての手腕が
垣間見える部分だ。
幕府の権威を重視する
景虎にとっても、
晴信が正式に信濃守護に
任じられてしまったのは
痛いところだっただろう。
1559年になると、
甲斐の国が飢餓に襲われ、
それを機に晴信は出家する。
そしてついに
「武田信玄」
を名乗るようになる。
晴信改め信玄は北信濃方面への
侵攻を続けていたが、
景虎は上洛して将軍と
面会するなどし、
関東方面のいくさにも
介入しようとしていた。
というのもこの頃景虎は
関東管領をつとめていた
上杉憲政からの要請を受け、
上杉姓と関東管領を譲り受けて
いたからだ。
このとき名前を上杉政虎、
そして将軍・足利義輝の
一字をもらって上杉輝虎と
改めている。
が、わかりにくくなるので
もうこのあたりからは
皆がよく知っている、
上杉謙信、で書いても
良いだろう。
謙信は関東方面へ
侵略の手を伸ばしている、
北条氏康を討つために
なんと越後から
関東平野を抜けて
諸将を味方にしつつ
小田原まで迫る。
関東の平和を乱す
北条氏康は
関東管領のこの俺が
許さない!!
というわけである。
この当時の幕府の役職などは
有名無実のものなのだが、
謙信の場合にはこれを
本気でやるから恐れ入る。
しかし北条氏康の小田原城は
天下に知られた名城であり、
後に豊臣秀吉が率いた
圧倒的な兵力
(それこそ北条家対それ以外の全国)
による侵攻を受けるまでは
落ちなかった城だ。
さすがの謙信もこの城を
落とすのは容易ではなかった。
北条氏康も信玄と何度も
渡り合ったこの若い軍神の
危険性はよくわかっていて、
城を出て決戦に臨むなどは
まったく考えずに、
籠城に徹した。
なにせ越後から小田原まで
出張ってきているわけで、
城を囲み続けるのは
さすがに無理である。
また、関東から味方についた
武将たちを掌握するのも
容易ではなかった。
離反する者も相次ぎ、
真面目な謙信からしてみたら
関東のためにやっているのに
踏んだり蹴ったりではある。
やがて謙信は越後まで
退いていった。
また、謙信が北条と
やり合っている間を利用して
信玄は川中島の近くに
対景虎戦の基点とすべく
海津城を築き、
腹心の家臣・高坂弾正を置いた。
(この人に関しては
面白いエピソードも色々
あるが…割愛しとこう…)
そして北条からの要請もあり
北信濃への侵攻を強化する。
これを受けて関東から帰った
上杉謙信は川中島の善光寺に出陣。
4度目の川中島の戦いが
開始される。
この4度目のいくさが
一番激しかったと言われ、
いわゆる信玄と謙信の一騎討ち、
の伝説であったりとかも
この戦闘で行われたと
されている。
我々が「川中島の戦い」と聞いて
思い浮かべるのは、
この戦いのことだ。
上杉謙信は近くの妻女山に
布陣した。
武田軍はこれを包囲するように
戦況を伺っていたが、
またこのまま膠着する
可能性もあった。
士気の低下を恐れる家臣たちは
決戦を主張する者もいたが、
謙信の強さを知っている
信玄からしてみると、
容易に軍を動かすことは
難しい面もあった。
参謀をつとめていた山本勘助は、
この膠着を打開するべく
「啄木鳥(きつつき)作戦」
を提案する。
部隊を二つに分け、
妻女山にいる上杉軍に
夜襲をかけ追い立てて
下山させる。
そこを麓の八幡原に陣を敷いた
信玄の本隊が迎え撃つ。
つまりきつつきが、
木をつついて虫を
外におびき出すように、
あえて上杉軍をつつき
引っ張り出そうという
作戦だった。
この作戦の主力は
つつく側である別働隊である。
つついて追い立てる部隊が
迎撃されては元も子もなく、
反対に麓で迎え撃つ
本隊に関しては山から
追い立てられて
士気の落ちた敵を掃討すれば
良いだけだ。
そこで武田軍は12000を
別働隊にあてて、
本隊を8000とした。
幅広く迎え撃つため、
その8000を八幡原に
羽を広げるように展開する
鶴翼の陣を敷いた。
作戦としてはほぼ
完璧であっただろう。
ごく普通に考えるなら
9割方は成功するはず。
ところが一夜開けて
武田軍のほうが、
大混乱に陥った。
あろうことか
霧に包まれた八幡原で
無傷の上杉軍が、
一斉に襲いかかったのである。
つまり上杉謙信は、
別働隊による夜襲を
完璧に回避して
一兵も失うことなく
密かに山を降りて、
決戦を挑んできたことになる。
作戦は全て見破られていたのだ。
信玄自身はおろか、
武田軍全体がとんでもない
恐怖に襲われたに違いない。
横長に開いた鶴翼の陣では
信玄のいる本陣も
手薄になっている。
それに対して上杉軍は
車懸かりの陣という
特殊な戦術で突撃を
敢行したと言われている。
車懸かりとは陣を
回転させながら
前に進むという戦法で、
こうすることで
一番前面にくる部隊が
次々に入れ替わることにより
常に余力のある部隊が
前面で敵にあたることができると
言われている陣形である。
そういったことが、
実際に可能なのか、
どれくらい現実的な
破壊力を生み出せるのか
わからないところではあるが…
少なくとも密集形態の陣で
混乱した鶴翼に突撃する方法は
相手の本陣のみを狙うなら
有効であることは
間違いない。
通常は鶴翼の翼を
折りたためられると
包囲されてしまうのだが
奇襲を受けているのは
武田の側であるので、
即座にそれをするのは
ほとんど不可能であった。
なぜ上杉謙信が、
武田の別働隊の存在を
感知出来たのかは
諸説言われているが、
山から見下ろしたときに
武田軍の炊飯の煙が
いつも以上に多かったことから
今夜、夜襲があるかも
しれないと勘づいたとも
言われている。
ともあれ対陣すること
数日に及ぶ中で、
そうした些細な変化を
的確にとらえ、
なおかつその判断を
まったく間違えないと
いうのはとんでもない
戦闘、戦術のセンスである。
なにせこれを誤った場合、
無防備に山を降りて、
武田の大軍勢の前に
姿を晒すのは上杉軍に
なってしまうのだから。
敵が夜襲してくる
そのたった一日を完璧に見破る。
そのうえで一切、
自分たちの動きには気づかせず、
相手の陣形に対しても
もっとも有効な手段で
突撃を敢行する。
天才である。
「風林火山」
といえば信玄が好んだ
いくさの教えであるが、
謙信の行動は
動かざること山の如し、
で山に陣取り、
風の如く素早く決断し
林の如く静かに下山し、
火の如く攻めかかっている。
これが軍神の真骨頂だろう。
こうなると武田軍にとって
挽回の手があるとすれば、
夜襲をかけにいった
別働隊が一刻も早く
山から降りてきて、
上杉軍の背中を突いてくれる
だけしかない。
なにせ別働隊は12000。
本隊よりも多いのだ。
それさえ来れば、
一気に戦局は変わる。
謙信もそれはよくわかっており、
であるからこそ攻撃の手は
緩めなかった。
武田側の名のある武将たちは
次々と討ち取られていった。
信玄の弟であり、
長年、側で支えてくれてきた
副将・信繁でさえも
命を落とした。
しかしここで武田軍も
さすがであったのは、
ついに別働隊到着まで、
謙信の猛攻を
凌ぎきったことであろう。
別働隊の到着を見て、
12000もの大軍に
背中を突かれてしまえば
上杉側も信玄の首は
諦めねばならなかった。
双方入り乱れての
激戦になったが、
啄木鳥戦法を立案した
山本勘助も責任を感じたのか
上杉軍に突撃をしかけ、
死んでいった。
一騎討ちの伝説が残るのは、
このときのことである。
別働隊の到着を聞き、
一刻も早く信玄を
討たなくてはいけないと
思った謙信本人が、
武田本陣に対して単騎で
突撃したというものである。
実際、武田本陣に関しては
鶴翼の陣形であるから
丸見えになっていた
可能性はある。
謙信の性格からしても、
それくらいのことは
やりかねない面もある。
大将は先頭に立たないもの、
と言われてはいるけれど
実際に謙信や信長なども
いくさの真っ只中で
刀を振るっていた話は
いくつも残っている。
実際はどうかわからないが、
謙信は本陣に突入し、
信玄に斬りかかったものの、
信玄は軍配でそれを受け、
多少の手傷を負った。
しかし側近が、
謙信の馬を槍で突いたことで
謙信は制御が効かなくなり
信玄を討てないと悟って
撤退したという。
あるいは謙信本人でなく、
謙信と似た格好をした
影武者ではないかとも
言われているのだが。
しかしこの伝説から
わかることは、
そういうことが起きても
おけしくはないほどに
信玄の本陣は押し込まれていた、
ということである。
最終的にこの戦いは、
上杉謙信が撤退したのだが
武田の死者は4000、
武田信繁や山本勘助など
有力な武将が多数討ち取られている。
上杉側は3000を失ったが、
武将クラスは生き残っている。
失ったものの数でいえば
武田の敗北とも言えるが、
現実には謙信を撤退させ
川中島の地を守りきった、
という意味では
勝利とも言えるだろう。
まぁ、差し引いて
引き分けという
ところである。
3年後の1564年には
武田、北条が飛騨での
争いに介入したことから
謙信は信玄が飛騨へと
侵攻しないように、
再び川中島へ出陣した。
これが5回目であるが、
双方ともに4回目の戦いで
相手の強さは嫌というほど
わかっていたようで、
2ヶ月対陣したものの
兵を引いた。
このあと信玄は上洛を
意識し始めたこともあり
東海道方面や、
美濃方面への進出を
考えるようになり、
謙信も関東への出兵が
主となっていったことから
二人が戦うことはなくなった。
一説によるとお互いに、
もう弓矢での戦いを
止めようと提案した話もあるが、
なんにせよ戦っても
勝負がつかずに失うものしか
ないことにはお互いに
気づいたかもしれない。
さてさて、今回は
信玄の晩年まで書こうと
思ったのですが…
川中島の戦いを書くだけで
長くなりすぎました…
だってこの人たち、
やり合ってばかりで、
譲らないんだもの…
とにかく信玄の中半生、
もっとも脂の乗っていた
時間の多くは、
軍神様とのいくさに
費やされてしまいました。
あぁ、無念であると同時に
であるからこそ、
武田信玄、上杉謙信ともに
そのライバル関係が素敵で
現代でも人気ある
武将なのでしょうね。
というわけで
今宵はここまでに
いたしとうござりまする…