織田信長を考えた、その2 | NobunagAのブログ

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織田信長といえば、
日本の1/3以上にまで勢力を広げ、
後の秀吉の天下統一の基礎を
築いたことで知られる。

実質的な最初の「天下人」である。

東海一の弓取りと
言われ恐れられていた
今川義元を撃ち取った
桶狭間の合戦を見ても
わかるように、
信長は戦闘の天才であった。

「麒麟がくる」の劇中でも
信長は斎藤道三に対して
自分の腹心の部下として
前田利家、佐々成政を
引き合わせ

「彼らは武家の三男、
四男であり、
継ぐべき家がないからこそ
自分の手で武功を
あげようとする、
だから強い」

というふうに紹介している。

信長自身も嫡男でありつつ、
諸兄や弟たちと違い、
父母と離れた境遇に
あったからこそ、
自身で力を高める必要があった。

そのため大人たちに
用意された保身的な家臣団よりも
自分にこそつき従ってくれる
若く強い部下を求めていた。

信長は若い頃はそんな
似たような年齢の側近たちと
派手な格好をして
街に繰り出しては
不良ごっこをしていたというが
そんな経験も彼らの結束の
礎にもなっていったのだろう。

ちなみに後に前田利家は
信長に活躍を評価され
本来、前田家の当主と
なるべき前田利久を廃し
前田家の家督を継ぐよう
命じられている。

利久にとっては、
屈辱的なことで
あっただろうが、
利家はその後、
天下に名を残すほどの
存在になっていく。

実はこのとき廃された
本来、前田家の当主と
なるべきだった
利久の子(養子)こそが
かの有名な前田慶次である。

慶次の話をし出すと
脱線しすぎるので、
ここはやめておくが
ともあれこうして
信長は自分の目で見出だした
優秀な家臣を重用することで
強固な信頼で結ばれた
家臣団を作りあげていった。

農民出身の木下藤吉郎、
後の秀吉を抜擢したのも
信長の非凡性をよく
表している。

さて、信長の象徴的ないくさといえば
有名な桶狭間の合戦であるが
これは従来言われてきたような
一か八かの奇襲作戦などではなく、
信長による綿密な情報収集に
基づいた確信的な
勝利であったという
見方が強くなっている。

とはいえ今川軍25000に対して
突撃を敢行した織田軍は
たったの2000と言われているので
非常に危険かつ、
やはり奇跡的な勝利ではあった。

信長が真に恐ろしいところは、
以降二度とこのような
博打に近い戦闘を
行っていないことだ。

並の武将であれば、
このような奇跡的勝利を
収めたりすると、
己を過信して少ない兵数で
勝つことこそいくさ、
などと勘違いして
やがて失敗し自滅する。

信長自身がこの勝利は
あくまでも様々な条件が
奇跡的に合致して
起こし得たものであると
自覚しており、
さらに数を揃えた軍勢を
倒すことがいかに
難しいことであるのかを
学んだと思われる。

これ以降のいくさでは、
信長は可能な限り、
相手よりも多い兵数を連れ
戦っている。

織田軍が画期的だったのは、
職業としての「兵士」を
育成したことにある。

それまでの兵とは、
普段は農業を行い
いくさになると武器を持ち
馳せ参じる、
農民兵が主流であった。

そのため農繁期には
合戦が行えなかったり、
劣勢になるとすぐに
離反してしまう脆さを
併せ持っていた。

信長はこうした
農民兵ではなく
プロとして活用できる
職業としての兵士を
活用していくことで、
一年通していくさを
行える状況を作っていった。

織田軍の軍律は、
信長の几帳面な性格を
反映してか、
厳しかったと言われる。

足利義昭を奉じて
上洛した際には、
京都での乱暴狼藉を
固く禁じていた。

かつて多くの
武士たちは上洛すると
街で乱暴に振る舞い、
京の街の人々の信用を
失うのが常であった。

信長はそうなることを警戒し
自ら陣頭に立って、
治安維持に勤めた。

ある兵士が街の女性をからかい
手を出そうとしたところを見ると
信長自ら斬って捨てたというから
徹底している。

実際、信長は自らが
支配している地域の
民衆には優しかったし、
人々を愛した。

安土城が完成した際には
なんと驚くことに、
街の灯りを消させたうえで
城だけをライトアップさせて
眺めを楽しませたというから
あまりに先進的である。

また、お城見学をさせ
ちゃっかり見学料金を
徴収したりもしている。

城作り、というものを
ひとつのイベントのように捉え
合戦に備えるもの、
という以上に民衆からも
愛され誇れるような
象徴的な建物として
考えていたことが窺える。

少なくとも民衆を
虐げる専制君主、
といった部分はあまり
見られない。

むしろ人を喜ばすことが
大好きだったという、
信長の本性が見える
部分でもある。

しかし信長の軍事への厳格さは
ときに家臣たちにとって
大きな負担でもあった。

松永久秀、荒木村重など
離反が相次ぎ、
そのたびに彼らを
討たねばならなくなった。

そして最終的には
最も信頼していた一人である
明智光秀に討たれてしまう。

「是非に及ばず」

という達観した言葉にも
人から裏切られることへの
慣れというか、
諦めみたいなものも
感じられる。

信長という人間の人間らしさが
実はそこにも表れているの
かもしれない。



なお、余談的なことだが
信長といえば

「天下布武」

という印を使ったことが
有名ではあるが、
実は麒麟の「麒」を
花押に用いている。

「麒麟がくる」の麒麟である。

自らを麒麟に例えたのか、
それとも麒麟がくる世を
作りたいと願ったのか。

実は「麒麟がくる」という
珍しいタイトルにも
ちゃんと信長の一面が
元ネタとして入っているのが
面白いところだ。