最期に見合う場所 | NobunagAのブログ

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■最期に見合う場所■

先日書いた難病の利用者さん、
結局は入院を選択して
いただくことになりました。

あくまで僕個人の意見としては
家族、そしてなにより
本人が望むのであれば
最期まで見てあげたいと
いう思いのほうが強かったです。

これはあくまで、
僕個人の、
そして介護スタッフとしての思い。

しかし僕が家族であれば、
やはり難しい病気で、
スタッフへの負担も
大きくなってしまう、
何より本人がつらいとき
何もしてもらえない…

それを思えば、
自分の親ならば入院を選びます。

単純に一人の介護士としてなら
どんなに壮絶な状況になっても
みてあげたいとは
本気で思っていましたが。

以前も書いたように、
介護は自分の思いだけで
できるわけでもなく、
できないことをできると
いうことほど、
無責任なことはありません。

スタッフの多くは不安を
抱えていました。

うちの院長も

「病気が難しすぎて、
あまりにも何もできない、
これでは施設で看取るのは
無理だろう」

とのことでした。

そして何より僕が
一番厳しいなと感じたのは
他の利用者さんの存在です。

通常の看取りといいますか、
老衰で誰かが亡くなることは
これまで何度もあります。

それだって正直、
難しい面は大きいんですが…

今回のように老衰というより、
病気の症状が強く
表に出てくる…

ひどい出血を伴ったり、
頻繁に意識を失うなど、
それらを目の前で見ている
他の利用者さんも
必ず反応します。

「認知症になると純粋になる」

これは良くも悪くもで、
要するに物事への反応が
ストレートに出ることを
意味してもいます。

例えば出血を目にすれば

「そんな具合悪いなら
とっとと病院に行ってよ!
ここにいるべきじゃないでしょ!」

出血のせいで顔色が
悪くなっていれば

「オバケみたいな顔して
気持ち悪い!」

などと相手の気持ちなど
おかまいなしに、
ひどい言葉を言います。

「病気なんですよ」

なんて説明したって
10分すりゃ忘れて、
また非難し始めます…

みんな性格が悪いのか?

…まぁ、それもあるかも
わからないんですけど、
でもその人たちの立場になれば
そうも言えません。

なぜならばそんな、
文句を言ってる利用者さんたちだって
心の中では

「自分もいつああなるか…」

という思いを抱いて
日々生きているんです。

なにせほとんどが
90過ぎてるような世界。

みんな毎日、
死の予感をどこかに
抱きながら生きてます。

だからできることなら
そういうつらい現実は
遠ざけたい、見たくない。

その思いが認知症のせいで
余計にストレートな非難として
口をつくのです。

また僕らスタッフも、
出血の処置というのは
そのための機器もないし
なにせ血が止まらない病気なので
止血にも時間がかかります。

夜間、早朝などは
一人で勤務しているので、
そういう処置に時間を
費やしてる間に、
徘徊バアサマが外へ
飛び出してた、
なんてことも出てきます。

こうしたいろいろな面を
考えた結果として

「みてあげたい」

という気持ちはともかく

「じゅうぶんみてあげられない」

のほうが現実的であって、
おまけに他の方との兼ね合いで

「本人の苦痛を和らげて
あげるどころか、
余計な苦痛を与える恐れが高い」

ということが気になるため、
病院に相談させていただき
結局、入院していただいたと
いう感じです。

この方に関しては、
最期に見合う場所は
施設とか僕のそばでなく、
病院ということになりました。



これはこれで悩ましいというか、
一抹の寂しさも残るというか…

自分としては本当に
100%の手は尽くせたのか、
考えさせられましたが…

でも先日、ご家族がみえて

「もともと先生からは
そんな重篤な病気だとは
聞いていなかったので、
こうなるとは思っていませんでした。
ここに入所したからこそ
いろんなことに気づいてくれて
今回、入院につなげてくれました。
家にいたら知らない間に
亡くなってた、
ということにもなったかもしれず、
でもこうやって、
一生懸命考えて対応してくれた結果、
最期のときを意識して
看取ってあげることができます。
ありがとうございました」

と言ってくださいました。

本当に救われた思いがします…


僕らは医者ではないので
そもそも命を救ってあげることが
ほとんどできません。

それどころか、
究極は死に至るまでを
ゆるやかにサポートしてる
ような部分すらあります。

それでいてなお、
認知症の人ばかりなので
本人がどう生きたいかだって、
じゅうぶんに支援できるとは
言い難い側面があります。

だけど今回のように
命を救ってあげることも、
本人のために何かを
してあげることすらも
できないとしても、
ひとつの家庭が
大切な人の最期に向かう
きっかけを作れたなら
それも僕らの役目として
まっとうはできたのかなと
思えます。


本当にこういう言葉によって
僕らのほうが救われています。

ご家族には感謝しかありません。

もちろん本人にも。


この貴重な出会いは、
無駄にはしません。

必ず次の方へと活かして
いくことができます。

その繰り返しですね。