困難なケースとは | NobunagAのブログ

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■困難なケースとは■
 
「例外を見逃すな」
 
という旨の記事を書きましたが、
実際のところ僕らが現場で出会う
いわゆる
 
「困難ケース」
 
というのはほぼすべてが、
そういう例外に当たります。
 
つまり僕らも何人も認知症の方を
お世話してきているので、
実はたとえば「帰宅願望」「徘徊」といった
単純な認知症の周辺行動について
そんなに振り回されることはありません。
 
対処法などは経験からいくらでも
知っていますから
それらを試していけば、
たいていいつかは解決します。
 
しかし問題なのは、
それらの対処法が試せないようなケースとか、
認知症の対処どころではない、
もっと重大なトラブルを抱えているケースです。
 
「対処法が効かない」
 
ではなく
 
「試すことすらできない」
 
というケースや
認知症以外の部分をサポートしないと
どうにもならないのに、
実際にはどうやってサポートすべきか
見当がつかない…というのが
困難ケースであって、
データ上の例外、
でも実際に僕らが何人も相手にしている
方々だったりします。
 
その理由はあまりにも
重度すぎることであったり、
経済を含めた本人を取り巻く
環境の問題であったり
さまざまです。
 
都会のグループホームでは、
そういう人は入らない、
認知症があっても
ある程度身のまわりのことができて
他者とも共存できる人、
そしてじゅうぶんな支払い能力があって
家族の支援も受けられる人が対象だ
なんて話も
聞きますが、
僕らの周りは違います。
 
一見、もう手遅れすぎて
手に負えない、
もしくは誰かの協力などほとんど
期待できない、
誰も助ける者がいないって人こそ
 
「すみません、そちらのグループホームで
なんとかしてください…」
 
と依頼されます。
 
僕がほとんどを断らないようにしているのも
ありますが、
田舎の風習みたいな面もあります。
 
つまりそれくらい大きな問題を抱えていなければ
わざわざ金を出してまで施設に預けない、
という考えがまだまだ田舎の意識として
存在しています。
 
年を取ったら自分たちのお金で、
施設に入って暮らしたいというような
一般的な理想的な考え方は
まだまだ浸透していません。
 
いわば施設は家族や行政の駆け込み寺です。
 
 
ちょっとだけ具体例を挙げると…
 
 
「家族が突然失踪して行方不明になり
身元引受人が存在しない」
 
「家族同士で裁判をしていて
とても協力など仰げない」
 
「金銭トラブルを抱えすぎてどうしようもない」
 
「10年以上間違った薬を飲んでいるが
家族の付き合いの都合で病院を
変えられない」
 
「宗教上の都合で薬が飲めない」
 
「家族に殺されそうになった、
または殺そうとしたことがある」
 
「軽い脳梗塞になり治療のための
点滴をしなくてはならないが
そのための数百円すら支払うことができない」
 
「老夫婦でずっと在宅でやっていく予定が
ある日突然夫がガンになり入院。
世話してくれる人もお金もない」
 
「外国人で日本にきて間もないので
日本語がほとんど通じない」
 
「老夫婦ともに認知症、
子供は障害があって施設で暮らしている。
他の身よりはない」
 
 
どうでしょう。
 
すべてたぶんデータ上では
ごく一部の例外なんだと思います。
 
「そんなのは特殊な連中だ、
そこまで面倒見きれない」
 
と研究者の皆さんは言うでしょう。
 
 
しかし僕らは現実に、
何人もこういう方々に出会っています。
少なくはありません。
むしろ多いくらいです。
 
自分の施設もそうですが、
ケアマネの研修なんかに行けば、
いくらでもこういう話は出てきます。
 
 
くわしく書きだすと個人情報にあたるので
普段は主に認知症の症状にしか
スポットはあてていません。
 
ですが実際には認知症への支援以外に、
その人の生活そのものを支えるために
多くの時間と労力を割いています。
 
その人が失ったものは取り戻せなくても
せめて今の瞬間を、
そして残された短い時間を
人間らしくいられるために
どれだけの支援をしているか
想像していただけるかと思います。
 
しあわせな家庭、
協力的な家庭ばかりではないということは
いくらでも知っているのです。
 
皆さんが想像する以上に、
そういう部分を見てきています。
 
希望なんかないじゃないかと
思えるような厳しい現実を
いくつも見ています。
 
だけど目の前の利用者さんは、
僕の名前を覚え、
慕ってきてくれるんです。
手を伸ばしてきてくれるんです。
 
だから
 
「わかりません」
 
「できません」
 
「やったことがありません」
 
「例外なので対処できません」
 
「あなたは特殊すぎるから無理です」
 
「責任が重すぎて僕には負えません」
 
なんて放り出すことはできないのです。
 
目の前のその人は生きているのだから。
 
何年この仕事を続けていても、
そのたびに
 
「もうこれ以上難しいケースはないだろう」
 
と思うのに、
次から次へとそういうケースに出会います。
 
そのたびに人間の黒い部分を多く目にして、
こっちが精神的に参りそうにもなります。
 
だけどそこに希望がないかといったら
そうではないのです。
 
希望が見えないのだとしたら、
たぶん見ている場所が
ずれているのです。
 
それを工夫するのも仕事です。
 
だから僕らにとっては
例外なんて存在しない。
 
すべてが助けるべき対象です。