■人生は剣道に似たり■
6年間ほど剣道をやっていたことがある。
剣道というのは実に特殊なスポーツで、
勝敗を争う競技でありながら、
たとえ相手から一本取ったしても
大喜びするようなことは戒められている。
ガッツポーズなんかしたら、
それこそ一本取り消しになったりするのだ。
だから我慢をする。
たとえ勝ってもである。
相手に勝った瞬間、
今度は自分との戦いが始まるということだ。
喜びたい自分を、
抑える戦いだ。
もともと剣道を純粋なスポーツとするには、
やや語弊もあるだろうと思う。
なぜなら剣道、
すなわち剣術はそもそも人を殺すために
磨かれてきた武術であるからだ。
しかし真剣で斬り合ったり、
木刀で思い切り叩いていては、
それこそしょっちゅう死人が出て
稽古相手もいなくなってしまい
技を研鑽するのが難しくなる。
というわけで竹刀が考案され、
その後、いろんな紆余曲折を経て、
今の剣道に至る。
日本はとても素晴らしい精神性のある国なので、
人を殺すことを喜ぶことはタブーとされる。
戦国時代などまさにその最たるもので、
一部織田信長のように苛烈な武将もいたが、
彼は非常に珍しいケースであって、
ほとんどの場合はたとえ敵を滅ぼしても、
皆殺しにしない、
もし相手を殺しても丁重に葬る、
というような文化があった。
相手に勝ってもあからさまに喜ぶな、
という剣道の教えは、
そうしたサムライたちの精神性の継承に
他ならない。
人を殺す武術であるからこそ、
むやみに力を誇示してはいけないのだ。
このところなぜ自分が、
あまり人と議論したくないかの
理由を書いてきたところだが、
原点を突きつめれば、
幼いころから学んできた
こうした剣道の教えの影響も
あるのかもしれない。
相手に勝てば必ず慢心が生まれる。
誰かに勝ったことを自慢すれば、
そこには必ず怨恨も生まれる。
相手に勝つことに過信する者は
やがて自分がいつか討たれる。
武士道の究極はたとえ力があっても
争わないことと個人的に考えているが、
できるだけそうでありたい。
幕末の英雄として名高い坂本龍馬や
桂小五郎は、
剣の達人でもありながら
自ら率先して剣を抜くことはほとんどなかった。
それどころか桂小五郎などは
「逃げの小五郎」と呼ばれていたくらいである。
もちろん人生すべてで争わないことなどは
またありえない。
そもそも会社勤めをすること自体が、
出世競争でもある。
いくら介護の記事で人を救うことを
一番に書いてきているとはいえ、
そこには会社の中での争いとか、
きれいごとでは書けないことだって存在している。
たとえどんなに高い理想があっても、
それだけではできないのが
仕事しての介護でもある。
人生のどこかで人は必ず、
何かを賭けて戦わなければいけない。
そういう瞬間は、
自分にもたくさんあった。
それどころかけっこう修羅場というか、
本当に命がけの瞬間もあった。
そのときに戦えない奴は、
男ではない。
ただし、そのときがくるまでは、
むやみに戦わないのも男だろうなと思う。
少なくとも自分はそうありたい。
俺が一番好きなスポーツはサッカーだ。
サッカーは一点取れば
選手は全身で喜びを表現する。
勝てば国を挙げての大騒ぎ、
勝敗の結果が実際の戦争を
巻き起こしたことすらある。
剣道とはまったく正反対の世界だ。
だが、だから惹かれるのかもしれない。
でも自分にとってどちらの生き方が
ふさわしいかといえば、
やはり剣道的な生き方なんだろうなと思う。
三つ子の魂百まで、
とは言うが、
その通りなのかもしれない。