【義龍、父道三を追放】弘治元(1555)年11月(22歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

<斎藤道三>画:筆者

 

【暗殺】

 美濃では隠居した斎藤道三(【道三隠居】参照)が斎藤義龍の弟の孫四郎に家督を譲る気配を見せたので、義龍は発心して稲葉山城を出て高野山へ籠ろうとした。その道中、日頃から親しくしている竹腰道陳がいる大柿城に立ち寄った。竹腰道陳は義龍を引き留めて説得した。これに勇気を得た義龍は稲葉山城に戻り弘治元(1555)年10月13日、病に臥せる振りをし、奥へと籠った。


 道三は心配して義龍の弟の乳母を派遣して病気見舞いをさせたところ、顔色がたいそう悪く見えた。そして11月23日、道三が稲葉山の麓の私邸に出向いた隙を突き、義龍は2人の弟(喜平次、孫四郎)のもとに叔父の長井道利を使わし、見舞いを促して2人を呼び寄せた。目的は、2人の弟を暗殺するためであった。2人がやってくると、長井道利が次の間で刀を置いた。それに倣って2人にも刀を置かせた。道利は2人に酒を振る舞い油断させた。

 

日根野弘就>画:筆者

 

 暗殺の実行者は日根野(備中守)弘就である。もともと暗殺は2人で行う予定であったが、弘就は「2人に命じられるとかえって約束を果たせない時がある。私ひとりに命じてほしい。」と申し出たため、弘就ひとりで行うことになった。弘就は義龍から受け取った「富士ひきし」という備前兼光の太刀(作手棒兼常)で殺害した。暗殺は次の間ではなく、帰り道に七曲りで行われたとも言われる。
 

 2人の弟を謀殺した義龍は道三に事の顛末を伝えた。道三は他国へ逃亡するか対抗するかの選択を迫られたが、義龍との対決を決意し、ひとまず城下の町を焼き払って長良川を越え、山県の大桑城にまで逃れた。

 

【安芸と駿河の情勢】
 なお、この年の10月1日には安芸国の厳島合戦で毛利元就が陶晴賢を破って自害させている。これ以後、毛利家は急激に台頭して中国地方を席捲し、信長より一足先に大国の雄になるが、三好氏との対抗上、生涯、信長とは友好関係を維持した。


 また閏10月10日に今川義元の軍師である太原雪斎が死去した。今川家を政治的にも軍事的にも牽引してきた雪斎の死によって、信長にとって対今川戦における軍事的脅威は大幅に減った。

 

日根野弘就について
 ここで、孫四郎、喜平次兄弟を斬殺した日根野弘就について紹介したい。日根野氏はもともと和泉の豪族であるが、弘就の父の代であろうか、美濃に移り、弘就は美濃国石津郡五町村で生まれた。美濃本田城主で、はじめ斎藤道三に仕えていたが、今回の事件では義龍に味方したようで、義龍が斎藤氏の実権を握った後は安藤守就・氏家卜全・竹腰尚光・日比野清実・長井衛安ら斎藤家重臣の連署状に名を連ねており、斎藤氏の執政として重用された。さらに義龍の息子の龍興の代にも変わらず用いられた。

 

 永禄10(1567)年8月に稲葉山城が落城して斎藤家が滅ぶと、弟・盛就と共に関東へ下った。その後、弘就ら日根野一族は遠江国の今川氏真に仕えて掛川城、天王山で徳川家康と戦っている。
 

 今川没落後は近江に上って浅井長政に仕えた。しかし、元亀3(1572)年冬には浅井家を去り、伊勢長島門徒に加担して、岐阜の近くの新砦の守備にあたっている。


 天正2(1574)年9月29日をもって長島は信長により全滅させられるが、それから間もなくして、日根野兄弟は長年対抗し続けてきた信長の軍門に降った。


 織田家仕官後は馬廻に抜擢され、天正3(1575)年8月の越前一向一揆討伐戦の時、遠藤慶隆らと共に美濃郡上郡より越前国に攻めこんだという。天正6(1578)年11月の有岡城の戦いにも参陣している。
 

 天正8(1580)年閏3月には弟の盛就のほか、日根野六郎左衛門・半左衛門・勘右衛門・五右衛門らが安土に屋敷地を与えられており、弘就以外の日根野一門も全員、信長の馬廻に取り立てられたようである。
 

 天正10(1582)年6月の本能寺の変時には在京していたが、本能寺や二条御所には駆けつけず状況を静観していた。光秀の近畿制圧の時点で、美濃の佐藤秀方と書状を交わして今後の去就について相談している。結局は秀吉に味方し、山崎の戦いの後には遠藤慶隆に京都の情勢を伝えている。
 

 その後は秀吉に仕えて、賤ケ岳の戦い後、秀吉から新たに美濃の旧地を与えられた。小牧・長久手の戦いにおいて秀吉から二重堀砦の守備を任せられ、徳川家康の猛攻に苦しみながらも撤退を成功させた。四国攻めにも参陣し、文禄・慶長の役の際には秀吉の使として朝鮮に渡海したという。その後、尾張・三河・伊勢に移封された。
 

 関ヶ原の戦いでは東軍・西軍どちらに味方したか不明だが、戦後に減封処分を受けている。のち高野山で出家し、空石と号した。慶長7(1602)年5月28日に死去した。
 

 日根野弘就が考案したと言われている「日根野頭形(ひねのずなり)」は、わずかに湾曲させた5枚の鉄板で鉢を構成できる為、製作の簡便さから戦国後期に流行し、全国で盛んに作られた。久能山東照宮の徳川家康所用という金陀美と白檀の具足の冑は、ともにこの様式を用いており、有名な武将たちも多く使っていたことが分かる。