しのび草には何をしよぞ

しのび草には何をしよぞ

信長の生涯を綴っていきます。

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永禄3年の西美濃侵攻図:筆者作図

 

【6月の美濃侵攻】

 『総見記』、『織田軍記』によれば、桶狭間の戦い(【桶狭間の戦い】参照)に勝利した信長は、その勢いに乗って永禄3(1560)年6月2日、美濃に攻め込んだ。相手の反応を見ることが目的であったため、兵力は約1,500であった。侵入場所は不明だが、墨俣川を渡って所々に火を放った。

 

 美濃側から斎藤方の部将丸茂・市橋が駆け付け、双方が100騎ばかりで矢戦、槍合わせをしていると、大垣から長井甲斐守が1,000騎ほど引き連れて応援に駆けつけてきた。

 

 信長はこうした相手の反応を見極めると撤退を命令。殿は柴田勝家がつとめたという。この時戦った丸茂・市橋はそれぞれ丸茂光兼・市橋長利のことと思われるが、彼らは後に信長に仕え、信長の主要な戦いに従軍して活躍し、本能寺の変の後は2人とも秀吉に属して家名を保っている。

 

【今川氏真の戦後処理①】

 6月8日、今川氏真は鳴海城を死守し、刈谷城の水野(藤九郎)信近を討ち取った岡部(五郎兵衛尉)元信を褒めた。そして6月13日には、武田晴信(信玄)が鳴海城を死守した岡部(五郎兵衛尉)元信を褒めている。

 

【重臣・佐久間信盛】

 6月10日、織田信長の家臣である佐久間信盛が、伊勢神宮の御師・福井勘右衛門尉に尾張国桶狭間での戦勝を伝えた。

 

 桶狭間合戦の戦勝報告を伊勢神宮にするという大役を佐久間信盛が担っていることから、この頃には佐久間信盛が織田家中最大の重臣になっていることが分かる。

 

 『新修 名古屋市史 2』によれば、室町時代における名古屋市内の有力武士としては、那古野の今川氏、熱田の千秋氏、御器所の佐久間氏が挙げられるという。

 

 建治元(1275)年に鎌倉幕府の政所が作成したリストに既に尾張の御家人として佐久間二郎兵衛入道の名が見え、寛正2〜3(1461〜2)年に御器所の佐久間美作守が熱田神宮の地下人とトラブルを起こした記録がある。

 

 つまり、佐久間氏は鎌倉幕府御家人の系譜を引く尾張国屈指の国人領主で、もともとは織田家よりも格上の存在であったのだ。

 

 室町時代後期には清須織田家の指揮下にあったと思われるが、織田信秀が古渡城に本拠を移した頃から勝幡織田家と関係を持つようになり、信秀が晩年に末盛城に本拠を移したあたりで信秀の指揮下に入ったものと考えられる。

 

 そして信秀死後、那古野城が信長、末森城が弟の信勝に相続されると、佐久間氏は信勝附の家老となった。

 

 佐久間氏の本家はこの頃は佐久間(大学)盛重(信盛の従兄弟)で、弘治2(1556)年8月の稲生の戦い(【稲生の戦い】参照)では盛重が信勝の家老でありながら信長方として参戦している。

 

 永禄3(1560)年の桶狭間の戦い(【桶狭間の戦い】参照)では、佐久間盛重が丸根砦、佐久間信盛・信直兄弟が善照寺砦を守った。当時の織田家臣団において2つの砦を守備できるほどの勢力を持っていたのは佐久間氏だけであり、この頃の織田家の軍事的中核を担っていたことが分かる。

 

 佐久間本家の当主である盛重が、この桶狭間の戦いで丸根砦をまくらに討ち死にしてしまったため、佐久間家の当主が佐久間信盛になったのである。以後、佐久間信盛は織田家の主力・信長の重臣として活躍することになる。

 

【尾張・三河国境の情勢】

 7月頃、松平元康が刈谷城・緒川城を攻め、緒川近くの石ヶ瀬で水野信元の軍と戦った。これ以降も翌年まで岡崎勢と刈谷勢がたびたび合戦をしたという(『八月朔日付けの筧平十郎宛て元康感状』『創業記考異』『松平記』『三河物語』)。つまりこの頃はまだ、元康は少なくとも表面上は今川方に属した動きを見せているのである。

 

【8月の美濃侵攻】

 8月23日、信長は再び美濃南西部に攻め入って苅田作戦を展開した。大垣から長井甲斐守が、多芸から丸茂(兵庫頭)光兼が千余騎を率いて駆けつけ、前回と同様、矢戦・槍合わせとなった。双方ともに前回よりも多くの討死が出たが、互いに無理な戦いはせず、信長は清須に兵を引いた。

 

【近江の情勢①】

 ところで、近江に目を向けると、8月中旬、肥田城(滋賀県彦根市稲枝町)からの救援要請を受けた浅井賢政(長政)は15歳の若さで軍を率い、六角承禎軍を相手に「野良田の戦い」で見事な戦いぶりを披露し、勝利している。六角承禎は反抗する浅井賢政(長政)を討伐するために2万5千の大軍を自ら率いたが、賢政率いる6千の浅井軍の前に大敗を喫したのである。

 

【今川氏真の戦後処理②】

 9月1日、今川氏真は岡部元信の鳴海城守備を称え、父の遺産相続を認めている。

 

【近江の情勢②】

 10月、浅井賢政(長政)は家臣団の支持を得て家督を相続した。そして六角氏従属路線を進めていた父・久政を隠居させた。

 

 12月、美濃国斎藤氏が六角氏と提携し、北近江の浅井領国に侵攻した。こうなってくると、近江の浅井と尾張の織田は、互いに六角、斎藤に対抗するために利害が一致するようになるわけで、これが後に両者の同盟につながっていくのである。

 

【織田の勢力が知多半島に影響力を増す】

 なお、12月には信長が常滑市大野の東龍寺に禁制を出しており、知多半島への影響力を増していることが分かる。東龍寺は9代目和尚が家康の従兄弟であり、桶狭間の戦いの後、大高城から岡崎に撤退する家康を保護したという伝承がある。また本能寺の変の後の神君伊賀越えの際にも家康を保護している。